第一章
3
何も思い残さずに死ぬのと、未練を持ったまま死ぬのとでは、もちろん思い残しがないほうが良いに決まっている。
だが、本当の意味ですべてに満足して往生することが出来る人間がどれくらい居るというのだろう。
だいたい、昇天の瞬間の人の気持ちなど、本人以外に知りようがない。その時には、既に意識を失っていたり、話す力が残っていなかったりするのが関の山だから、結局のところ、他人にそれが伝わることも、まずないわけである。
仮になんとしても死ぬ前に訴えたいことがあったとして、看取ってくれる人が居なければ、またどうしようもない。
つまり、よほどの幸運が重ならない限り、自分の最期の想いはこの世に出ることなく消滅する。
もちろん普通の人間は、そんな悲観的なことを考えて暮らしたりはしないけれど、冷静になって考えてみれば、自分が孤独に死んでいくという可能性を否定できるだけの、合理的な根拠など、どこにも存在しないことに気づく。
人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、自己を幸福にするために、それらを敢えて考えないように工夫した――
科学者にして哲学者でもあったブレーズ=パスカルの至言だが、死の概念を認識できる数少ない生物でありながら、それを直視する勇気が持てないのが人間という存在なのだ。
誰もが、例外なく、いつかは死ぬ。
地球の反対側で、海の向こうで、誰かが飢えて、あるいは殺されて、死ぬ。
テレビ画面に映る有名人。
取引先の上司。
卒業以来会っていない同級生。
かつて自分をいじめていた、自分がいじめていた、名前も覚えていない彼または彼女。
大量虐殺を行った犯罪者。
大量殺戮を行った戦場の英雄。
自分は不死だと豪語する者。
国家の元首。
駅の清掃員。
無二の親友。
恋人。
ライバル。
自分の今まで出会った、これから出会う、人達。
誰も彼も――必ず死ぬ。
圧倒的真実。
理解している。
理解はしている。
だが。
自分――こうして、今、現在、思考し、志向し、景色を見たり、仕事、勉強をし、腹を空かせ、食べ、排泄し、睡魔に襲われ、床につく――この《自分という存在》が、将来間違いなく消滅するという事実を想像すると、ぼくはいつも、首を傾げたくなる。
まったくもって、実感が無い。
たぶん――そいういうふうに、出来ているのだ。
認識してしまわないように。
怖く、ないように。
《あの時》までぼくはそう思っていたし、今でもそう思う。
まったくもって、実感が無い。
結局のところぼくは死んだ。
死因――なんていうと大それたことのようだけれど――まあ、実際死んじまったわけだから、大ゴトといえば大ゴトなのかもしれないが――ぼくを死に至らしめたのは大型トラックの馬鹿デカい前輪だった。所謂、轢死ってやつである。
普通だった。
ニュースやら新聞やらで、交通事故に巻き込まれて死傷者三名、なんて聞くことが多いせいだろうか。
トラックに轢かれて死ぬ、なんてのは、ぼくの中では、よくある死に方トップ・スリーに入るくらい、凡庸だった。被害者のことを考えて、うわ、ひでーかわいそーくらいには思っても、五分後にはもうほとんど意識していない程度の、普通な死因だ。
もちろん同情しないわけじゃない。轢かれたやつ――この場合、ぼく――はもちろん不憫だし、恐らくはうっかり――綺麗な景色に気を取られたかなにかで――殺人者になってしまった運転手の、その後の人生の悲惨さは想像するに余りある。
けれど、それでも、そんな《悲惨な》事故はこの世にありふれていて。自分のことに精一杯だったぼくは、そんなことは、全体から見れば、気にも留めていなかったに等しかった。
だから、だからこそ――自分がそんな、ふつうの、理由で死んでしまうとは、思いもしない。
別世界。事故死なんてのは、自分とは何の関係もない、別の世界での出来事だった。
はずだった。
自分はそんな《普通に》《悲惨な》事故なんかには巻き込まれず、《普通に》恋愛し、《普通に》勉強し、《普通に》進学し、《普通に》就職し――《普通に》働き、《普通に》家庭でも作って、《普通に》幸せになって――《普通に》《普通の》――穏やかな死を迎える。
そんな風に、漠然と、《普通に》思っていた。
もちろんそうなる可能性は十分にあったんだろう。
あの日までのぼくだったなら。
だが事故は《普通に》ぼくに襲い掛かった。
それがぼくである理由などなかった。
たまたまぼくがあの時、交差点前で信号待ちをしていたこと。
ぼんやりしていたぼくの目の前で、なんだか奇妙な格好をした小さい女の子が、トラックの前に躍り出たこと。
そうして――咄嗟にぼくの足が地面を蹴ってしまったこと。
ただただ、それだけ――タイミングが悪かっただけ。
一瞬で意識は途切れたから、その後どうなったのか、自分の目で見ることは出来なかった。
それでも、ローラーで身体を押し潰されるような感覚は、間違いようも無い。
どう考えても、ぼくはあの時、即死、した。
しかし。
だというならば。
どうなって……いるんだろうか。
「――あなたは昨日、死にました」
清冽な朝の光を受けた柊香ちゃんの首筋が目映かった。
目映かった――そんなことを考えているこの自分は、一体どこの、誰なんだ。
「ぼくは――」
「あなたも……わかっているのでしょう」
「分かってる。分かっているさ。けど……さっぱり、分からないんだ」
「お気持ち、お察ししますわ」
柊香ちゃんが優しい声で言う。
「誰だって初めは……混乱しますもの」
「……ぼくは死んだ。交通事故だ」
「……記憶が残っているのですわね」
「ああ。全部思い出せる」
「全部ですって?」
驚いたような声を上げた柊香ちゃんは、目を見開く。意外なことに、その表情はかなり愛嬌があった。
「……そんな……まさか。有り得ませんわ……」
柊香ちゃんは考え込むように腕組みして、
「すると……あなたは記憶を失っていないと仰いますの?」
「そう……だと思う」
「それが本当ならば……とんでもないことですわ……」
「待ってくれよ……一体なにがどうなってるんだ?」
ぼくの言葉を聞いているのかいないのか(いや、多分聞いていながら無視しているに一票)、柊香ちゃんはエプロンドレスのどこかからファンシーなデザインの携帯を取り出した。短縮番号をプッシュしてどこかに電話を掛け始める。
なんとなく、電話の相手は綾音さんなのではないかと思った。
「…………」
暫く待ってもなかなか出ないようで、柊香ちゃんは少し苛立たしげに眉を顰める。唇をきゅっと引き締めた顔はさっきとうって変わって凛々しいものだが、
「むぅ……」
時折口をへの字に曲げて呻いた。それもまた、どういうわけか、柊香ちゃんには、はまっていた。
よほど重要な用事であるらしく、五回、六回と掛け直すが、ご執心の相手は出ない。
「……むぅぅ……」
とうとう痺れを切らしたのか、
「ああ、もう! ドクトルはどうして、いつも大事なときにかぎって、携帯にお出にならないのかしら! 信じられませんわ!」
「ま、まあまあ、落ちつ――」
「あなたは関係ないんだから黙っていてください!」
すごい剣幕だった。ちょっとびっくりした。
「ううー」
もしかすると、柊香ちゃん……冷静に見えて、実は結構感情が表に出やすいタイプなのかもしれない。心持ち、頬が紅潮している。
「だいたいあなたもあなたですわ! もっとうろたえるでしょう、普通! それとも何ですか、私のほうが可笑しいとでも?」
「それは……ぼくも不思議なんだよ。どうしてこんなに落ち着いていられるのか、自分でもよくわからない」
「それって……なんだかよけいに腹立たしいですわね……」
「どうして?」
「――ああもうああもう! どうして出ませんの?!」
柊香ちゃんは携帯を元通りに仕舞うと(と言ってもどこに仕舞っているのかは不明だった)、律儀にぼくに向き直り、
「しょうがないので、ドクトルの所に直接行って参りますわ」
「え……ぼくはどうすれば」
そしてぼくに敵意でもあるような怖い顔になった。
「知りません! 好きにしたらいいのですわ! 勝手になさったらいいでしょう!」
「…………」
なんだこの状況……もしかしてぼく、八つ当たりされてるんだろうか。
ぼくはふと思いついたことを言ってみた。
「あのさ……柊香ちゃんて、低血圧?」
「…………」
無視だった。図星のようだけれど、好感度(そんなものがあったとしての話だが)を下げていないかが心配だった。
「お気遣……どうもありがとう、ですわ」
何気に上昇?!
ぼくがそんな他愛もないことを考えているうちに、柊香ちゃんはさっさと背を向けて、
「それでは、ごきげんよう」
玄関から颯爽と出て行った。アパートの廊下を足音が遠ざかっていく。
なんだかな。
一人きりになった部屋で、ぼくは溜息をついた。
「そうか……ぼくは生きていないってか」
まあ、本当は最初から分かっていたのだけれど。柊香ちゃんはひどく驚いていたが――あんな鮮烈な体験を忘れられる人間なんてそうは居ないだろう。
綾音さんや柊香ちゃんと会ったあの部屋で目覚めた時も、心の底では、間違いなく死後の世界だと思っていた程だ。
ぼくは死んだ。今や、それは揺るぎない事実だった。
しかし、解決されない疑問があった。
何故ぼくはこうして、自分の部屋のベッドで女の子と語らい、あまつさえ溜息なんぞ吐いていられるのか。
考えたくもなかったが――ぼくは窓の外に目を向けて推論してみた。
「やっぱり《あれ》が関係あるのかな……」
「ん」
「当たりですか」
「まあね。なかなか勘がいい」
「それくらいしか思いつきませんからね……」
「それもそうだね」
「柊香ちゃんも可愛そうに。今頃あなたを探し回ってるはずですよ――綾音さん」
綾音さん――ドクトル=デュヴァリエ卿は、ベランダの手摺の上で器用に足を組んで腰掛ながら、ベッドに座るぼくを窓越しに睥睨していた。
「そんな責めないで欲しいんだね。楽しげに語らってる少年少女の邪魔をするほど、我も野暮じゃないつもりだしね」
「それはともかく電話には出ましょうよ。ぼくまでとばっちりを喰ったじゃないですか」
「その辺が一番楽しそうだったけど」
「余計なお世話です!」
「うふん」
綾音さんは怪しい声を出して、
「まあいいじゃん。トーカは怒ってる時が一番、いきいきしてるよ」
「そうなんですか……」
本人にはとても言えないな。
いや、……ちょっと反応を見てみたい気もする。
「そーんなことよりさ。我、ちょっと気になることがあってね。――記憶残ってるって、マジなん?」
「え……ええ、まあ」
「念押しはウザいかもしれないけれどね……嘘じゃないわけね?」
「はい。嘘をつく意味もないですから。何なんです? 柊香ちゃんも随分、そこに拘っていたみたいでした」
「それは当然、拘るだろうねぇ……。トーカは特に、ね……しかしこれはまた、まいったねぇ……」
「綾音さん」
「あん?」
「ぼくは……どうなってるんです?」
「ああ……うん。そうかそうか。気になるよね。そういえばまだ、何も話していなかったね」
「はい。もう誤魔化しとか、そういうのは、ナシで。単刀直入にお願いします」
綾音さんはちょっと困ったような顔をした。
「うぅ……やだなあ」
なんでだ。
「だってぇ。前にもこういうシチュ、あったんだけどさぁ。その時、我、逆ギレされて……とぉっても非道い目に遭わされたんだよね……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……わ、わかったよぅ。話すよぅ。そんな怖い目するなよぅ」
「よろしく」
綾音さんがどんなトラウマを背負っていようが、そんなのぼくには関係がない。
いい加減、白黒つけるべき頃合だった。
「じゃあ、言うね」
「……はい」
「まあぶっちゃけ、死んでるわけだけど」
「知ってます」
「で、今現在、貴様の肉体は、我が使役しちゃってるわけね」
「…………はい?」
「あーもちろん肉体だけじゃないけどね。それだと制御が激ムズになっちゃうからね。一応貴様の魂の素情報を圧縮して取り込んであるよ」
「…………あの」
「凄いよねー。圧縮解凍処理しても記憶が残留するなんてさー。生前の記憶なんて、優先順位から言ったらふつう真っ先に削れちゃうのに」
「…………」
「かといって、バグで知性が欠如、みたいなことにもなってないようだし……ナユタ不可思議。理論上どっかが欠損するはずなんだけどね。貴様も見たっしょ? 積んであった《あれ》。全部失敗作なんだよ。ホントはあの何倍も失敗してて、貴様は貴重な成功例なわけ。それくらい起動率が低いから、なかなかこの分野に手を出す《血族》は我のほかには居ないんだけれどね……。でも、もし百パーセント……いや九十パーセントでも、高精度の復元が成功してるとしたら、とんでもないことだよ……一大センセーションを巻き起こすね、これは――。ってあれ。あらー。もしかして、もしかしなくても、貴様、全然追いついてないね?」
「分かるわけないでしょう」
「ううん……現代の《人間》向きの説明だと思ったんだけどねぇ」
「ぼくはコンピューターとか嫌いです」
「うわ。言っちゃったね……」
「機械ごときと馴れ合ったら負けだと思ってます」
「あ、そ」
綾音さんは興味なさそうに、
「うーん。なら、別の表現を使うしかないね……我、なんか時代遅れっぽくて好かないんだけれど。今の《人間》は妙なイメージ持ってくれちゃってるしねぇ。旧時代、レトロの響きってのを感じるね。好きじゃないけど懐かしい……」
事も無げに、言った。
「まあ、あれだね。所謂よく言うところの――ゾンビになっちゃったんだよ、貴様はね……もう我には二度と逆らえない、傀儡なんだよ。――くくくく、面白いね、その顔! 恐怖と嫌悪に満ち満ちた、その顔! それでこそ――それでこそ我が下僕! 我が愛しき人形よ! さあさあさあ、この偉大なる魔女にして邪悪なる術師、ドクトル=デュヴァリエ卿の足下に跪け! 我が下僕よ――葬送の従者よ! 我に仕え、我を称えよ! そしてその身を腐らせよ! さあもっと近づいて、その顔をもっと絶望に歪めて見せておくれ! ああ、愉快愉快! 本当に愉快! よくぞ《血族》に生まれけり! くくくく……クッックッククククククあはははははははははははははははははあああああああああああああああぁッ!」