第一章
4
「……ん、ん、ん?」
魔女は間の抜けた声を出す。
がっちりと両手で顔を掴まれ、綾音さんと至近距離で見詰め合う形になっていたぼくは、
「……つまんなあい」
「――」
直後にいきなり解放された。
「あのさぁ。……こっちも魔女っぽく雰囲気出してんだからさぁ。そっちもこう……ね? リアクション薄すぎるでしょ」
ぼくが呆れて発言を保留していると、綾音さんは煙草を取り出して咥えこんだ。使い古されているらしく表面の黒ずんだジッポーが炎をあげる。
「…………」
そうか。違和感はこれだったか。
ライターって……魔女なら火くらい熾せよ。
「いちいちうっさいなぁ。趣味なんだよ」
「…………」
「言っとくけど貴様の心の中身くらい、我にはまるっとお見通しだからね」
……おいおい。
読心術って都市伝説じゃなかったのか。
「少なくとも魔女を目の前にして言う台詞じゃないよねー」
何も言ってねえよ。ちくしょう。
綾音さんは器用に煙で輪を作りながら、さっきのテンションが嘘のように、
「あー」
……着々と鬱モードになっていた。
「もう、なんかあれだね。死にたい」
…………。
「それはこっちの台詞ですよ……」
「あん? 貴様もう死んでんじゃん」
「生きてるじゃないですか」
「そいつは勘違いだね。さっきから言ってるじゃん。貴様はゾンビ。我が仮の生を与えたおかげで現界できてるけど、ホントはとっくに死んでる」
「そこんところが、わからないんですよ……そんなこと、どうやったら」
「あのねえ。魔法に根拠を求めようっての? それこそ背理ってものだよ。まあ、我は優しいから、説明してあげるけど」
「ええ?! まじで?!」
まさかの展開だった。
全然期待なんてしてなかったのだが。
「何驚いてんの……まあ誤解を恐れずに簡単に言っちゃえば――アストラル界を漂って霧散しかかってた魂の首根っこ引っつかんで連れ戻して来て、元通りの箱に収めたってとこだね。もちろん身体の方は、内臓なんかもうしっちゃかめっちゃかだったんで、とりあえず使えそうな可逆因果を流用してある程度復元したんだよね。まあ大体いつもこんな感じでトライしては失敗するんだけど……やっぱり人体蘇生は無理ゲーだよ。まあ今回はかなり早期に手を打てたのが勝因だった。もちろん我の天才的技術とノウハウと情熱があってこそ可能な話だけれどね」
…………。
「はあ。それで?」
「それでって……これで終わりだね」
ああ……そうか。
ぼく、からかわれてんだな。
なんとなく分かってはいたが――悪趣味な魔女だった。まあ魔女だしな。
「オッケーです。理解しました。つきましては、そろそろ観たいテレビがあるんで帰ってください」
「じゃあ一緒に観ようよ」
思いっきり、自然に返された。
「そうと決まれば新聞新聞ー……よっこいしょ」
勝手に窓から上がりこんでくる魔女を止める気力すらぼくにはない。
「お、見っけ。へぇん、ちゃんと新聞とってんだね。殊勝な心がけじゃん。……あれー、リモコンは? テレビは?」
「ないですよ」
「は? なにそれギャグ? さっき見るって言ったよね?」
「ぼくは機械が嫌いなんです。さっきのは、あなたを追い出すための単なる口実に過ぎません」
「し、しんじらんねー、こいつ……本当に人間かよ……」
あんたは魔女だけどな。
「あ、今悪口言ったね」
だから心と部屋には勝手に踏み込まないでくれ……。っていうか、べつに悪口じゃないだろう。
「しょうがないな、もう」
綾音さんはぶつぶつ文句を言って、白衣のポケットから何か棒状のものを引っ張り出した。
「あ……それって……杖……?」
「まあねー」
綾音さんの指先でくるくると弄ばれている細長いそれは、確かにぼくが《魔法使いの杖》に抱いているイメージに酷似していた。
しかしそれは、あくまでもそう思えただけのことで――注意深く観察すれば、それが異様なフォルムをしていることが分かる。
先端に向かって先細っていく本身の部分は、木製ではなく、綾音さんのそれは黒々とした表面が金属光沢を放っていた。そして持ち手の部分からは一目では分からない様々な形状の突起物が突き出ていて、何らかの機能的な用途があるのは分かっていても、全体から感じられる奇妙なアンバランスさのためか、まるで呪われたオブジェのようで、なんだか不気味だ。
綾音さんはその《杖》の先で、何かを描くような動きをみせた。
「……んーと」
熱心に新聞を――新聞のテレビ欄を覗き込みながら、繊細な手つきで、注意深く《杖》を振る。
「よし、これにしよう――」
そう言って、一際大きく腕を動かした瞬間。
「………………」
空中に巨大なプラズマハイビジョンテレビの画面が出現していた。
大迫力、超画質。
そしてアップになった俳優らしき男の顔。
「わおー大成功」
「何ですかこれ」
「テレビだね」
「んなこた分かります」
「我オリジナル。地デジにも当然対応してるんだよ?」
「そんな自慢されても……」
「お近づきの印」
「さっきぼくが機械嫌いだって言ったの聞いてなかったんですか」
「でもテレビないなら新聞とか取る意味ないよね」
それはジャーナリズムに対する冒涜だ!
「テレビだって立派な報道媒体だよ」
「…………くっ」
「食わず嫌いは良くないよっ」
そんなこんなで。
ぼくと綾音さんは、大して広くもない部屋の真ん中にでかでかと看板みたいに浮かんでいるテレビに映し出されたドラマを、二人並んで鑑賞することになった。
正確には、熱心に見ているのは綾音さんだけで、それまでのストーリーを知らないぼくは全然興味がなかったのだけれど、
「まあ我が適宜説明入れるからさー。とりあえず観よう。……っていうか、さぁ。貴様は我の下僕なんだよ? そのあたり自覚あるよね?」
などと綾音さんが脅迫めいたことを言うものだから、不承不承お付き合いすることになったというわけだった。
「下僕ねえ……」
「ん? 何か言った?」
綾音さんは月九に没頭したまま、上の空で反応する。心を読むにもある程度の集中力が要るようで、今ならば好きなことを考えられそうだった。
「あ、出た出た。こいつは酷い男なんだよ――」
「へえ……」
「それでその恋人っていうのがまた――」
「ほう」
もう完璧にのめり込んでしまっている綾音さんに適度な相槌を打ちつつ、ぼくは考えを整理することにした。
綾音さん曰く――ぼくは既に死人である。
それはぼく自身、承知している。自分で言うのもおかしな話ではあるが――昨日の丁度今頃、ぼくは高校からの下校中に、ダンプカーの凶躯によって人生を断ち切られた。そして……。
ぼくはテレビ画面を食い入る様に見つめている綾音さんの横顔を盗み見る。
この人――否。この魔女が、ぼくを蘇らせた。
らしい。
しかし、だ。
本当に、本当の本当に、そうなのだろうか?
綾音さんが普通の《人間》でないことは、もう間違いがないとしても。
死んだ《人間》が黄泉還るなんてことが有り得るのだろうか。
そんなことは――そんなのは信じられない。
あってたまるかよ。
考えてもみればいい――死人が蘇る、そうしたらどうなる? 明らかだ。社会が大混乱に陥るに決まっている。特にぼくが事故にあった時には、かなりの目撃者が居たはずだ。救急車に、警察だって呼ばれただろう。
その監視の眼をどうやってかいくぐり、ぼくの遺体を持ち去り、怪しげな魔法か何かを施すことが出来たというのだ。それにぼくを使役するといったって、ぼくは二度と街に出ることはできない。ぼくが《死んだ》という事実は動かないのだから、知人と出会う可能性のある行為は、綾音さんとしては避けねばならないだろう。
だから――綾音さんはぼくを蘇らせることなど出来なかったはずだし、仮に出来たとしても、メリットなんてありはしないはずなのだ。
しかしぼくは死んでいる――この矛盾を避けようというなら、答えは一つしかない。
ぼくは死んでいないのだ。
どういうカラクリかは判然としないが、なんとなく想像は出来た。
ぼくはあの事故では死なず、大怪我程度で命は助かっていたのではないか。
昏睡状態になったぼくは、怪我が治った後も、ずっと病室かどこかに寝ていて。
それを、綾音さんがこっそりと、拉致して――そう考えれば、辻褄が合った。
少なくとも、ぼくが一度死んで、生き返っただなんて……そんな話を信用するよりは、よほどまともな判断だろう。
ぼくは綾音さんとは反対側、開いたままの窓へと眼を向ける。
今ならば――魔女が油断している今この時ならば、逃げられるだろうか。
試しに、腕に力を入れてみる。
「――――」
悪くない。悪くなかった。
体力は、以前ほどではないにしろ、かなり回復しているようだ。ぼくの部屋は寮の二階だが、無傷で着地する程度なら何とかなる。
あとはタイミングが重要だ。
ぼくは再び綾音さんを振り返り、
「…………っ」
「……はっ。思ったより往生際が悪いね」
心臓が激しく動悸するのを感じた。
綾音さんがぼくの側を向いて笑っていた。
嗤っていた。
「久しぶりに活きの良さそうな人形だから、甘く見ていれば調子に乗ってくれるじゃん。思考が読めると言ったのに、認識が甘々だねぇ」
綾音さんは立ち上がると、ぼくの胸倉を乱暴に掴み、ぼくは近くに引き寄せられた。
魔女の怒りに満ちた視線に射抜かれて――ぼくは網膜を焼かれるような錯覚を抱いた。
「わかったよ。そこまで主人である我の力に疑いを差し挟もうというのなら――見せてやるよ。完膚なきまでに貴様の疑念を、疑惑を、曖昧な反駁を粉砕して、叩き潰して、燃やし尽くして、消炭にしてやる」
綾音さんは恫喝するように、吐き捨てるようにそう言うと、ぼくがよろめくのも構わず、凶悪な勢いでぼくを襟首から引っ張り、窓際へと向かう。
上がり込む際に脱いでいたらしいブーツに足を突っ込むと、魔女は片手にぼくを捕らえたまま、シガレットケースを取り出した。一本を器用に抜き出し、咥えると、ライターを使っていないのに、既に先端に火が燈っていた。
「ふん……こういう時にはジッポーは不便だ」
言って、深く深く、中毒性のある煙を肺の奥まで吸い込み、何かを憂うように、吐き出す。
「ま、貴様のお望みどおりに、してやるさ。我の力を見せてやろう。それで何を考えるかは自由だけれど、はっきり言っておく。後悔すること請け合いだ。知らぬが仏とはよく言ったものだね。……それでもこの先を見たいと言うなら、我は貴様に《真実》を提供する。個人的には、見ざる、聞かざる、反論せず、の精神で、我の下僕として、黙って服従することをお勧めするけれどね。まあ、どっちにしろ、なるように、なるんだろうが」
「…………」
ぼくは何も言わなかった。少なくとも、口に出しては、何も。
だが、
「そう……。だったら、行こうか」
直後、ぼくの身体は宙を舞っていた。
逆さになった景色のかなり上の方、ベランダの綾音さんがつまらなそうな顔で、煙草を吹かしている。
一瞬の浮遊感の後――ぼくは落下し始めた。放り上げられた、地上四階の高さから、頭を下に、コンクリートの道路へと。
「う――わあぁぁぁ!」
死ぬ。これはもう間違いなく、死ぬ、死んでしまう――!
「嫌だ! 死にたく――死にたくない!」
「うっさいなぁ……」
綾音さんの前を通り過ぎる時、自分の絶叫の最中、そんな声が聞こえた。
世界がスロー再生されたように、ゆっくりと、コマ送りのように、途切れながら、進む。
ぼくの頭蓋を砕こうと迫ってくる、陽に焼けた灰色の地面が、突如、変形した。
最初は、自分の影だと思った――が、違う。
凝固しているはずのコンクリートが、まるでそこだけ液状化したかのように、ぐにゃりとへこみ、丁度人が入れるぐらいの、四角い穴を形作る。
そしてその穴の側面が、徐々にせり上がり、今度は箱へと変化した。
それは、日常的に目にする物では決してないが――しかし誰もが見たことのある、容器。
死者を収める、棺桶。
ぼくの身体はその中へと、まっすぐに落ちて行く。
そうして、ついに地面と衝突するその間際、棺桶の底面が、消失した。ぼくは地面があるはずの場所を突きぬけ、棺桶の下に続く、終わりの見えない穴の中を落下し続ける。
壁面を呆然と見ていたぼくの横に、上下逆の体勢で、綾音さんがいつの間にか並んでいた。
ぼくは歯を食いしばり、せめてもの抵抗をする。
「……これがあなたの言う《魔法》ですか。あのテレビといい、この穴といい……大したこと、ないんですね」
「ふん。こんなのは、ただの余興だよ――本番はこれから。覚悟しておくんだね、《人間》」
激しい風切り音が耳の奥に響く。
綾音さんは済ました様子で、まだ煙草を吸っていた。
もうほとんど地上の光は届いていない。
徐々に濃度を増してゆく暗闇の中で、魔女の持つ煙草の火だけが、大量の酸素を与えられて狂喜するように、不吉な赤い光を放っていた。