葬送の従者達

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  •   第一章  


     最初に感じたのは、光だった。
     どうやら窓から差し込んでいるらしい、柔らかな暖かさを甘受していたぼくは、心地よいベッドの中で寝返とうとして、――やわらかいものに阻まれ、まどろみから抜け出した。
     うん――?
     白いシーツの眩しさに目を細める。
    「――――」
     まもなく視界が回復すると、目の前に、綺麗な青空が広がっていた。
     ベッドの傍の開けた窓を向いた、外の景色を眺められる絶妙の体勢で、ぼくは目を覚ましたらしかった。
    「これは、なかなか」
     快晴の空にはほとんど雲一つなく、奇妙な夢を見た直後としては、これ以上望むべくもないような、とても気持ちいい起床だった。微風に揺れるカーテンに撫でられた頬がくすぐったい。
    「そうか――やっぱり夢だったんだな」
     心底、ほっとした。
     なんだか少し、残念な気もしたけれど。
     だが、ぼくはあんな部屋には、あの夢の中でしか見たことも行ったこともない。こうして自分の部屋で爽やかな目覚めを迎えている以上、あれが現実でないことは、明らかにも程があるのだった。
    「はあ……」
     せっかくの目覚めの爽やかさを、陰気な溜息で台無しにしつつ、ぼくは不承不承、身体を起こした。

    「…………」
     ベッド脇の床に腰を下ろして、彼女は眠っていた。シーツの上に交差させた両腕を枕代わりに、
    「…………すぴー」
     寝息を立てている少女、を目の前にして、ぼくは言葉を失った。
     おいおい。
     すぴー、じゃないっての。
    「…………うみゅ?」
     うみゅ、でもなかった。
     待て待て。状況を整理しようじゃないか、ぼく。不測の事態にあって、重要なのは冷静な判断力と、それに基づく迅速な行動である。
     たぶん、おそらく、ぼく自身には何ら、やましいところなど、一片たりともないはずである。であるが、この世の中には、冤罪というものが存在することくらいはぼくも知っている。特にこういう状況の場合、状況証拠は被告の側に不利に働くことが多々であって……

     とか、なんとか。
     ぼくは要するに、どうしようもなく、混乱した。
     頭の中をぐるぐると、無為な思考が席巻し、残された時間は無情に過ぎ去って行き、そして過ぎ去ってしまう。
     つまりは、手遅れ。
    「――――……ん」
     むずかるような声が上がった。
    「…………あの……」
    「…………」
    「…………」
    「…………」
    「…………」
    「なんですの?」
    「え」
    「なにか、私の顔に付いてますかしら?」
     少女は――夢で見た彼女に限りなく似ているその少女は――寝起きで不機嫌そうな、憮然とした表情で、ぼくを睨みつけてきた。
    「えっと……柊香ちゃん……?」
    「…………」
    「…………」
     あれ。
     もしかすると、ひょっとすると――勘違い?
    「……ちゃん付け」
    「え?」
    「自己紹介も済ませてない相手を馴れ馴れしく呼ぶのは、どうかと思いますわ」
     妙な叱咤をされてしまった。
     が、とにかく――勘違いでも他人の空似でも、これはないらしかった。
     ということは、だ。

     夢じゃ、ない。

     状況がひっくり返った。
     妄想の中の登場人物だと思っていたメイドが、こうして目の前に現れてしまったとあっては、妄想は妄想でなく、夢は夢でなかった、と信じる他はない。
     まあ、ぼくに妄想具現化、みたいな都合のいい異能力でもありゃ、話は別だけれど。
     ていうか、そんなんあったら、妄想も現実も同じ物になっちまうんだろうが、それはそれで、楽しいのかそうでないのか、よくわからなかった。
    「えっと……柊香?」
    「呼び捨てとはずいぶんですわね」
     どうしろってんだ。
    「まあ、かまいませんわ」
     どっちだよ。
     ぼくは心中でごちたが、少女は全く意に介せず、
    「改めまして、自己紹介を――わたくしは、御来川(おくりがわ)柊香(とうか)。現今は、《ドクトル》デュヴァリエ=綾音卿の下にて、《マクート》所属尖兵部隊長の役目を拝任しておりますわ」
    「……はあ?」
    「はあ、とはご挨拶ですわね」
     実際、意味が分からなかったのだから、仕方がなかった。単語レベルでもそうだが、この少女が、さも当然そうにぼくの部屋に居て、自信満々に自己紹介してきたことが理解しがたい。
     まるで――それがぼくに関係のあることみたいじゃないか。
     それに、気になっていることは他にもあった。
    「どうしてぼくはここにいるんだ」
     だから、率直に訪ねてみる。礼儀とか前置きとか、そんなものに気を回している余裕は無い。
     柊香ちゃんは、質問の意図が分からない、というように首を傾げて、
    「それは、どういう意味ですの?」
    「いや、だって……ぼくはどこか……地下室みたいなところに居ただろ? どうやって、この部屋まで移動させたんだ?」
    「運んできたからですけれど」
    「運んできた……? 誰が」
    「私ですわ」
    「……はい?」
    「あなたって、驚くのがお好きですのね」
    「いや、だって、そりゃ」
     そんな細腕で、担いできたって、そう言うのか?
     これでもぼくは、体格にそれなりには、自信があったのだが。
    「あなた程度でしたら、一本でも十分ですわ」
    「片腕ってことか」
    「いえ、小指」
    「…………へえ、そ、そうなんだ」
     どうやらこの娘、虚言癖があるようだった。
     だいたい、仮にそれだけの力があっても、小指一本ではバランスが取れないだろう。硬い材質のものならともかく、人間の身体みたいに柔らかいものは、無理だ。
    「念のため、ですけれど。疑ってたり、してませんわよね?」
    「…………」
     図星にも程があった。
    「そうですか……無理もない、といえば、そうなのかもしれませんわね」
     柊香ちゃんはそう言うと、ふうっと、何かを憂えるように溜息をついた。
    「まあ……こちらとしては、あなたが《核(コア)》としての役割を、きっちりしっかり、果たしてくれれば、それで一向に構いませんけれど」
    「《核》――?」
    「ドクトル・デュヴァリエ卿が御自ら組織された、汎用部隊《マクート》――その活動の、最大の目的の一つが《核》なのですわ」
    「…………」
     余計に混乱が深まってしまった。
     質問すればするだけ、頭の中がごちゃごちゃになってしまう。
     完全に、泥沼だ。
     その原因は、定義の不明な言葉ばかり使う柊香ちゃんによるところが大きいけれど、責任の一端はぼくにあるんだろう。なにしろ、最も大切で重要な疑問を、あえてぼくは避け、放置していたのだから。
     とはいえ、ぼくは怖かったのだ。
     聞いてしまうことが。
     最初の最初、綾音さんと出会ったその時から、抱いていたその《疑問》の答えを、聞いてしまうことが、ぼくは途方もなく、怖かった。
     だから、できるだけ、その時を先へと延ばす。
     たとえ無駄なことだとしても。
     ぼくは焦りを押し殺し、柊香ちゃんに向き直った。
    「ええっと……随分と、置いてきぼりを喰っている感があるのだけれど」
    「それはそうでしょうね。ごめんなさい。でも一つ一つ説明するのも面倒ですから」
     確信的犯行だったか。
     それはそれでいいのだけれど、正直に言われるのもなんかあれだった。
    「私、どちらかというと、アンチゆとり教育、詰め込み礼賛派ですので。あなたにもその点は覚悟していただきたいですわね」
    「はあ――って」
     柊香ちゃんの教育上の持論に特別興味はないけれど、この場合には聞き捨てならない話だった。
    「ぼくに覚悟しろって、――そもそもどうして柊香ちゃんはここに、」
    「ちゃん」
    「――柊香さんはどうして、ここに居られるわけでしょうか?」
    「迂遠な訊き方をしますわね。意図が見えませんことよ」
    「……ここはぼくの部屋だよ」
    「それが何か問題ですかしら? ……まさか、不法侵入だとでも、仰るつもり?」
    「……いや」
     仮にも寝ている男をおぶってきてくれた女の子(というか、指で《持ってきた》そうだが)に対して、そんなことを言わないくらいの礼儀は弁えているつもりだ。が、しかし、これはそういう問題ではないのだった。
    「ぼくが言いたいのは……どうしてここで、ぼくのベッドに顔を乗っけて寝ていたのか、ってことの方だよ」
     柊香ちゃんは、肩をびくっ、とさせた。
     嫌なことを思い出してしまったぁ! みたいな顔をして、
    「――…………見ましたか? あるいは、聞きましたか?」
    「え」
    「……何か見ましたか、それとも聞きましたか、と私は問うていますよ……?」
     なぜか物凄く怖い形相で、柊香ちゃんはぼくのことを見据えている。
    「な、何も」
     ぼくは咄嗟に嘘をついてしまった。
     《見た》というのは、何のことか分からないけれど、少なくとも《聞いた》という事実は存在する。
     でも、いずれにしても、それを正直に話すのは、……とても勇気の要ることだった。
     っていうか、何か見逃したってことなんだろうか。柊香ちゃんの口ぶりから察するに、きっと面白い寝顔か何か、していたのかもしれない。
     なんだか勿体無い……。
     今更悔やんでも仕方がなかった。
     ぼくは今にも怒り心頭に発しそうな柊香ちゃんの気を逸らそうと、強引に話を進めることにした。
    「ぼくが言いたかったのは、そういうことではなくて……どうして、この場所がわかったのか、という意味だ」
    「ああ……。それならば、至極自然な疑問でしょうね。あなたと面識のない私が、訪れたこともないあなたの自宅を、どうして知っているのか――ということですわね?」
    「それだけじゃない……君がドクトルと呼んでいる彼女――綾音さんは何者なんだ。それに、君も。……」
     柊香ちゃんは、なんだか呆れたような表情になる。
    「得体の知れない人間と遭遇した時の反応としては、まあ普通ですけれど――やっぱりあなた、遠回りが好きな性格ですね」
    「それは……君だってそうじゃないか」
    「私はいいのです。ドクトルより、あなたの教育係の役目を仰せつかっていますから。教える順番やカリキュラムは私が決めます」
    「教育、係?」
    「あら、言っていませんでしたかしら」
     聞いてねえよ。
     柊香ちゃんはゆるやかな動作で立ち上がると、エプロンドレスの裾をちょこんと摘んで、
    「では改めまして……私、本日よりあなたの先輩兼教育係に就任しました、榊柊香と申します」
    「教育係って、何の」
    「ふふ……ようやく本題に近づきましたわね」
    「――――」
    「私は先ほどから不思議だったのです。なぜ、あなたは問題の核心から遠い質問ばかりするのだろう、なぜ、優先順位の真逆の順に、消化していくのだろう、と。……今、やっと分かりましたわ。普通なら、いの一番にするべきこの質問を、あなたがしない理由。本能的に、人間が一番最初に抱くはずの疑問であるにも関わらず……それを避けるわけ。それは――恐れですわ」
    「――――」
    「ドクトルや私、《マクート》、《核》――それら未知のものに対する恐れは、無いとは言いませんが、相対的に、大したことはありません。あなたが本当に心底恐怖し、逃げ出したいと思っているのは、そんなものではなく――」
     やめろ。
     やめてくれ。
     やめてください。
    「――自分は一体どうなってしまったのか。なぜ、見知らぬ部屋で目覚め、再び意識を失ったのか。そもそも、それまで何をしていたのか。それが全然、わからないし、思い出せないから、怖くて怖くてたまらない……。いいえ、もしかすると、少しは覚えているのかしら? 覚えているからこそ、今、こうしている自分との整合が取れなくて、だから、尚更、どうしようもなく、怖いのかしら――?」
     ――その口を閉じろ。
     せっかく忘れようとしていたのに。
     記憶に、蓋をして。
     嫌なものに、蓋をして。
     正常な心を、保とうとしていたのに。
     いや――どっちにしろ、限界だった。
     あの陰気な部屋で《あれ》を目にした時から、うっすらと、頭のどこかで理解していたのかもしれない。
     でも――ぼくは信じたくはなかった。
     いくら、記憶の中の自分が、そう告げていても。
     柊香ちゃんの言うとおりだ。全くそのとおり、図星も図星。
     ぼくは結局、怖くて、怖くて、怖くて、仕方ない。
     だけれど――だから、ぼくは、こうして、健康に、柊香ちゃんと、話している、この《自分》を、現実だと受け入れたかった。
     過去の忌まわしい記憶を消去し、今の自分で塗り替えたかったのだ。
     だが、それも、もう、おしまい。
     なぜなら、気づいてしまったから。諦めてしまったから。自覚してしまったから。
     だからだから、――もう全部、終了、だった。
     いや、本当を言えば、とっくのとうに、終わっていたのだけれど。
     試合終了のホイッスルが鳴った後に悪足掻きをする無様。
     判決が下ってしまってから泣き喚く無能。
     そんなところだった。
    「――あ。ちょっと、言い過ぎた、かしら」
     放心しているぼくに、柊香ちゃんは遠慮がちに声をかけてきた。
     ぼくは気持ちを奮い立たせて、
    「大丈夫……たぶん」
     弱気な台詞を吐いた。
    「そう……まあ、既に、あえて言う必要も無くなったようですけれど、今後のために、一応、宣言しておきますわね」
    「ああ」
     ぼくは覚悟する。
     通常で考えたら、まず有り得ないような、荒唐無稽な電波話だ。以前なら、たとえ、ぼくがこの世で一番信頼している京平が言ったとしても、決して信用しないどころか、笑い飛ばしていただろう。
     だが、今のぼくは、言葉に出して告げられるまでもなく、《そのこと》を確信していた。
     だって、そりゃ、そうだ。
     あまりに自明。ハッキリしすぎている。
     それにしても、失敗したなあ。
     しくじったよ。あんなことするんじゃなかった。
     持ちなれない正義感なんか持つと、文字通り命取りにしかならない。身にしみて痛感する。
     結局あの子は助かったんだろうか。
     しかし、案外、あっけないもんなんだな。
     よく言うような走馬灯なんて見える暇もなかった。ただ、真っ白で――

     柊香ちゃんは、澄んだ瞳を――薄青の入った、綺麗な目――ぼくに差し向けながら、淀みなく、断言するように、判決の条文を読み上げるように、一音一音を際立たせ、淡々と、告げた。

    「あなたは――あなたは昨日、死にました」
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