第五章 悪魔の釜
7
雨が降っていた。強く、激しい雨だ。世界の全てを黒く染めて、雨は慎二の黒い髪を、丸みを帯びた鼻を、肩を、背中を、絶え間なく打ち続け、服に付着した物質を少しずつ洗い流そうとしていた。
(なんだ、これは――)
慎二は意識を取り戻していた。なぜか、左の腹が妙に熱い。
―桐嶋―
どこからともなく聞こえてくる、その声に、少年は応える。
「桂先生……」
―済まない。全ては私の過失だ。何もかも駄目にしてしまった―
「――」
慎二は必死で記憶の糸を手繰った。
おぼろげながら、桂に支配されていた時に見た光景を慎二は思い出した。
拳銃の引き金を引く直前、美千瑠は突然手を止めて桂を見た。
いや、正確には桂の後方――本校舎の方を、桂の肩越しに驚愕の目で見つめていた。
桂が気付いて振り返った時には既に遅かった。
数十以上の異形の怪物が、一斉に桂と美千瑠に襲い掛かったのだ。
美千瑠は当身で遠くへと突き飛ばし、ひとり拳銃で応戦した。弾丸は凄まじい速度で的確に敵を打ち抜いたが、余りに多勢に無勢だった
桂は体勢を立て直すと、すぐに加勢に向かいかけたが、その時――
慎二の足元には紅い液体が流れ落ちては、圧倒的な雨量により程なく透明に清められていた。
左の腹の熱さが、唐突に、痛みに変わった。
「っ――」
わき腹に刃物が刺さっていた。
「ククク……このわしが、何の保険も無く、敵地に乗り込むとでも思っておったのか?」
ダガーナイフの柄を片手で掴んだ理事長が、慎二の横で嗤っていた。
理事長が、ぎりりと前進した。
「がっ――」
慎二が苦悶の声を上げる。
「有り得ん、そんなことは、有り得んわ」
理事長は狂気に憑かれた顔でそう言った。
「ゴミどもめが……コイル≠ェ手に入らぬのなら、皆殺しにしてくれるわ」
「!」
ナイフがさらに押し込まれた。慎二は倒れこむことも出来ず、強烈な嘔吐感に咳き込んだ。
慎二は悪寒に震えながら、美千瑠の姿を探した。
慎二の前方数メートルの位置に、それはあった。
どす黒い塊が、その三分の一を水に埋めて倒れていた。
全身を黒々とした血に染めたその塊は、四肢をてんでばらばらな方向に放り出して仰向けになり、瞼を開いたまま空中の一点に視線を凝固させていた。体中の傷に雨が勢いよく叩きつけられていた。だがそれはいかなる微小な動作も示さなかった。呼吸をしているのかどうかですら定かでなかった。
「美千瑠……」
慎二は呼びかけた。朦朧とした意識の中、美千瑠の声が聞こえた。
「慎二くん……? よかった、無事なのね……」
美千瑠は安堵した様子で言った。
「私、なんだか苦しいんだ……身体も全然動かないし……」
慎二は黙っていた。
「……ねえ、どうして黙っているの?」
少年は答えようとして、自分が泣いている事に気がついた。
「は……はは……」
こんなことでは。こんなことでどうする。
死にそうな苦痛を堪えて、なるべく平静を装って、慎二は応えた。
「僕は大丈夫……君はすこし怪我が深いけど、治療をすれば平気そうだよ」
「そう……よかっ、た……」
それきり美千瑠は沈黙した。
同時に、理事長が笑いを堪えきれない様子で言った。
「ふはっ! お別れは済んだかの? そろそろ、お主も逝ってはどうだ?」
理事長は慎二の腹からナイフを引き抜くと、それを慎二の喉元に当てた。
「三十秒だけ祈る間をやろう……わしはこれでも魔術師だからの。神の存在は信じておる」
慎二は観念して目を閉じた。
(もう、駄目だ。助けてくれる人も居ない……桂先生の魔眼もここでは意味が無い……)
「二十九、二十八……言っておくが逃げても無駄だぞ。もう目が見えなくなっておるかもしれんが、お主らの周りにはまだわしのペットがおるからな……二十三、二十二……」
―桐嶋―
再び桂の声が響いた。慎二は意識の中で応える気力すら失っていた。
―もうどうしようもない。これは最後の手だったが……―
理事長の声がそれに被さった。
「お主らが死んだ後は、わしのペットが美味しく食べてやるから安心して逝け……十八、十七……」
―コイル≠使え、桐嶋―
―…………え?―
絶望の中にあった慎二の意識は、予想だにしない桂の言葉によって呼び覚まされた。
―もやは形振り構っては居られん……使え、桐嶋―
―使うって……どうやって?―
理事長の読み上げる数字が、徐々にゼロに近づいていく。
「……十一、十……」
―念じるんだ……この状況を打開したいと―
「……九、八……」
―……そんなことで……?―
「……七、六……」
―説明している時間は無い! 早くしろ!―
「……五、四……」
―そんなこと言ったって……どうすればいいのか、分からないですよ!―
「……三、二……」
―いいから願え! 強く! 必要なのは、ただそれだけだ……―
「……一……」
―貴様の望む、未来を!―
理事長の手が動いた。血にまみれたナイフが慎二の頚動脈を切断し、大量の血が噴出した。
(あ――)
急速に意識が薄れ、慎二は自分の身体が地面に倒れるのを感じた。
どしゃり、というだけが耳に響く。とっくに視界はブラックアウトしていた。
雨で跳ね上げられた泥が瞼にかかった。
(はは、くすぐったいや……死ぬ間際でも、こんなこと思うんだな……)
しかし、それすらもすぐに感じなくなった。
全身のあらゆる感覚器官が機能を停止し始めていた。
先程まで鮮明だった雨音も、既に殆ど聞こえなくなった。
五感を全て失い、慎二は暗い世界に一人ぼっちだった。
(ああ……そういえば、僕はずっとこうだったな)
最後に残った意識で、慎二は思った。
(父さんも母さんも居なくなって……広い家に独りになって……あんな寂しい想いは二度としたくないと思っていたのに……)
大介と冴枝の顔が浮かんだ。
(去年のクリスマスも……楽しかったな……大介はただヤケになってただけだけど……榊さんも一緒になって、騒いで……わけ分かんなかったけど、本当に嬉しかった……)
突然押しかけてきた彼ら全員分の料理を作り直しながら、それを見て苦笑いしている慎二。その横に、かつてはなかったはずの姿があった。
大きすぎるエプロンをつけた美千瑠が、大介の乱行ぶりを、それを止める後輩たちを、膨れ面でそっぽを向いている冴枝を見て、慎二の横で笑っていた。
(御牧さん……同じクラスだったのに、あんな子が居たなんて、全然知らなかったな……こんな風に出会わなかったら、もっと、色々話したり、遊んだり、出来たのかな……)
美千瑠が見よう見まねで料理を手伝って、どうやったのかフライパンの中身を爆発させているのを、その横で見ていて大笑いしてみたかった。
美千瑠が落ち込んで俯いてしまったら、頭を撫でてあげたかった。
美千瑠が得意げに語る魔法や魔術について、もっと聞いてみたかった。
自分が淹れた紅茶を慎二が飲む様子を、ちょっと心配そうに見つめるその顔を盗み見てやりたかった。
任務に忠実で、クールに決めたがっているけど、時々失敗しては慌てている彼女を、いつだって護ってやりたかった。
そして、彼女の笑顔を、これから先もずっと、見ていたかった――
―それが汝の望みか―
突如、地鳴りが響いた。
「む――?」
周囲を見回した理事長は自分の目を疑った。
敷地に巨大な魔法陣が出現していた。光の線で描かれた図形が暗闇の中で煌々と浮かび上がり、その円周の一部から、帯状の何かが上空に向かって斜めに延びていく。それは円柱の側面に沿うようにゆっくりと渦を巻きながら徐々にその長さを増していくように見えた。
「螺旋……! おお、これがコイル≠ゥ! 魔力の釜だ! わしはついに手に入れた!」
理事長は狂喜しつつ光の螺旋が伸びるのを見ていたが、やがて違和感を覚えた。
螺旋が伸びるに従って、周囲が急速に暗くなっていく。
「何だ――?」
理事長は目を細め、再度周囲を凝視した。
そして、ようやく事態の重大さに気がついた。
「な――!」
螺旋は上空に向かって伸びているのではなく、その逆だった。魔法陣に囲まれた敷地の方が、地中に埋まっていた螺旋に沿って、そこだけ切り取られたように、回転しながら地中に飲み込まれていたのだ。
「く……脱出する方法は……!」
理事長は慌てて上を見上げたが、既に螺旋の頂上は三十メートル以上離れてしまっていた。
その時、理事長の耳に声が響いた。
―汝が、我を目覚めさせし者か―
「――っ」
声は周囲の壁から聞こえて来るらしかった。
―汝が望み、確かに聞き届けた―
「何? わしはまだ何も望んではいないぞ――」
―だがここに汝以外の生者は居らぬ。他の誰が望んだというのだ―
「何……」
足元には美千瑠と慎二の身体が転がっていたが、もうぴくりとも動いていなかった。
理事長が呼び出した使い魔達の姿もいつの間にかなくなっていた。
―魔の釜の蓋を開く為、獣どもの魂を使った。願いを叶えぬまま釜を閉じるは契約に反する―
「ま、待て。話せば分かる……」
―問答無用―
「まっ――」
螺旋に電流のようなものが走った瞬間、理事長の体は霧状の物質に変化し、螺旋の隙間へと吸い込まれていった。