第五章 悪魔の釜
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雨がさらに強まっていた。
上ヶ崎高校は小高い丘の上にあるため、遠方からでも、その全体を眺めることが出来た。周囲の建造物に対してかなりの高さがあるため、本校舎の屋上には航空機の衝突防止用の警告灯が取り付けられている。緩やかに明滅する赤い光の配置は、どこかあの聖十字を連想させた。
丘の麓にまで辿り着くと、慎二達の乗るタクシーはゆっくりと停止した。
「すみません。ここから先は高校の敷地なので入れないんです」
運転手は大介の体調が思わしくないことを気にしてか、申し訳なさそうに言った。
慎二は、
「そうですか……お気遣いありがとうございます」
と応えると、財布を取り出して高額紙幣を一枚差し出した。
「お釣りは結構ですから、このまま二人を家まで送って下さい」
慎二はそう言って一人で車を降りた。
「桐嶋っ? ちょっと待ちなさい!」
慌てて冴枝が声をかけたが、慎二は運転手を目で促した。
運転手は軽く頷くと慎二が居た助手席の扉を閉めた。その直後、慎二の側の窓が開いて、運転手の腕が折り畳み傘を隙間から差し出した。
「私物ですが、どうぞ」
慎二は礼を言ってそれを受け取った。すぐに窓が閉まり、エンジンを吹かす音が鳴った。
車内から慎二を引きとめようとする冴枝の声が聞こえたが、黒塗りの車はその場で器用に反転して、今来た道を逆向きに発進した。
遠ざかっていくタクシーを見送る慎二の口がひとりでに動いた。
『いいのか? 唐沢が西尾に体を獲られる可能性はゼロではないぞ?』
慎二は畳まれた傘を手に持ったまま、
「榊さんが傍にいるんだ……大介は勝つよ」
と言った。
『ふん。まあ私の助けがあったとはいえ、奴は自分の意志で西尾を喰らったんだ。あんな三流魔術師ごときに呑まれたりはせんだろうな……』
慎二は丘の頂上を見上げた。
上ヶ崎高校の正門への道が真っ直ぐに続いている。林を切り開いて作られたその道は雨でぬかるんでおり、慎二が一歩踏み込むと簡単に靴跡が付いた。
「――」
土に残った跡は慎二の先にも続いていた。
直線的なそれは人間の足跡ではない。幾本も途切れずに真っ直ぐ伸びるその跡は――車輪が土を抉ったとしか思えなかった。
(重機だ!)
慎二はそう気付くと即座に道を走り出した。
途端にぬかるみに足を取られて転びそうになる。門まではまだ遠いが、早くも息が切れ始めた。日頃の運動不足を後悔しつつ慎二は足を前へと運んだ。
―桐嶋―
桂の声が響いた。
「なんだっ!」
慎二は走りながら叫んだ。
―何故そこまで必死になる。あの娘がどうなろうと、貴様には関係の無いことだろう―
「うるさいっ!」
―貴様や貴様の知り合いが危険に晒されたのも、もとはといえば御牧美千瑠が巻き込んだことだ―
「っ!」
―しかもあの娘は御牧美千瑠の分身に過ぎない……単なる『現象』だ。そんなものの為にコイル≠動かそうなどと―
「そんなの、知ったことか!」
その時、慎二は窪みに足を取られて転倒した。持っていた傘が投げ出され、何かにぶつかって止まった。
「――ほっほ。これは有難い」
声が聞こえた。慎二でも桂のそれでもない、酷くしゃがれた、余裕に満ち溢れた声だった。
「――この土砂降りには参っておった。老体に冷えはよくないからの」
「…………!」
慎二の目の前に、理事長――唐沢元が立っていた。
理事長は手にした杖の先を折り畳み傘のストラップに引っ掛けて持ち上げると、泥を払い落として開き、頭上にさした。
「ふむ、これは快適――どれ、お主も入ったらどうかな?」
「…………」
慎二は何も言わずに理事長を睨み返した。
「そうか、そうか……ではわしも冗談を言うのは止めにしよう」
理事長はそう言って傘を放り投げた。
今まで傘をさしていなかったにも関わらず、理事長の紋付の着物は全く濡れていなかった。
よく見ると、理事長の周囲に降る雨は、身体に当たる直前に進路を捻じ曲げられるようにして、ことごとく理事長を避けている。
「わしは若い頃から傘など使うたことがない。風がわしにだけ雨を降らせんようにしてくれるからの――さて。お主がここに居るということは、西尾はしくじったな?」
慎二は理事長を警戒しながら立ち上がった。体中が汚れていたが、この雨の中では気にもならない。
「相変わらず使えぬ男じゃ……しかし不思議よの。お主、何故逃げなんだ?」
「…………どうして大介を襲ったんだ」
慎二は理事長に逆に問を返した。
老人は目を瞬かせて意外そうに言った。
「ほう、あやつ、お主と共におったのか?」
「……知らなかったのか?」
「その必要すら無いわ。あやつは既にわしにとってはどうでもいい存在だからの」
「なんだとっ」
「あやつには魔術の素質がなかった。このわしの息子だというのにな。その上、事ある毎に反発してわしの邪魔をしよったから、勘当して追い出してやったわ。殺してもよかったが、それすら面倒での。全く塵(ゴミ)の様な奴よ」
その瞬間、慎二の心に明確な殺意が芽生えた。
――この男は今何を言った?
世界が単一色に染まり始める。
――自分の息子の事を、何と呼んだ?
両親が消えた、あの日の事が脳裏を過ぎった。
――大介を、俺の親友を、この腐れじじいは何と呼びやがった?
――慎二の意識はそこで途切れた。
「クハハハ、ようやく出て来おったわ! その小僧の目を初めて見た時に確信したぞ! こやつの中には何かおる、わしの計画を邪魔する者が伏して待ち構えておるとな!」
視界が原色の赤で埋め尽くされていた。
空は赤々と紅く、月は黒々と昏く、世界は悉く、反転していた。
『――勘違いするな、貴様などに会いに来たわけではない』
慎二の姿をした桂綾子が、紅い眼を理事長に向けていた。
『……この桐嶋(ガキ)め、自ら私に身体を譲り渡すとはな――余程、貴様の息の根を、この私に止めて欲しかったとみえるが、残念なことに貴様に魔眼は効かないようだな』
腕組みをした桂綾子は傲然と仁王立ちし、挑発的に言い放った。
理事長はくつくつと暗鬱に嗤うと、楽しげに桂に応えた。
「何を言っておるのだ、小僧に情が移ったか? 自らの肉体を失いし魔女よ……悪いがわしは今、お主と闘り合っている暇はない……それにお主もコイル≠欲しているのであろう? 何、わしもそこまで狭量ではない。コイルの強大な魔力、おぬしに分けてやってもいい。この老体の身には、かの魔法使い共の遺産は重荷になる」
桂は暫くの間理事長を無言で見ていたが、
『……それは、魔の釜をダシにして、私に寝返りを要求しているわけだな?』
と静かに言った。
「いかにも」
理事長の返答を聞いた桂は突如破顔した。
『お門違いも甚だしいぞ、魔人%q元――私は初めから誰の味方でもない。貴様の部下を消したのは、奴が私の宿主を殺そうとしたからに過ぎん。だが、魔の釜を手に入れる為に共闘しろというのなら、乗ってやろうじゃないか』
「クク……つまり、呉越同舟という訳かの?」
唐沢元はそう言うと口を歪にゆがめて嗤った。