第五章 悪魔の釜
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美千瑠は台所の隅に軟禁されていた。
「御牧さん!」
「あ……慎二くん」
意識はあるようだったが、かなり衰弱しているらしく、声は掠れたように弱々しかった。
―拘束魔術がかけられていたようだな……念入りなことだ。この娘はそれを無理に解除しようとして必要以上に消耗したんだろう―
桂が意識だけで慎二に語りかけた。
(解く方法は?)
慎二も美千瑠に気取られぬよう、言葉にはせずに答えた。
―あの男からの魔力供給が切れて既に解けているが……―
桂はそこで言葉を切り、深刻な声で言った。
―魔力の消耗が激しすぎる。このままでは、この娘が消滅してしまうぞ―
(そんな……)
―この娘はもともと人間ではない。魔力を頼りに存在を保持しているだけの分身に過ぎない。その意味では一種の『現象』なんだよ、この娘は―
慎二は声が美千瑠に聞こえない位置まで移動し、桂に言った。
「……どうすればいい」
『そうだな、こういうのはどうだ? 魔眼を使って私の存在をこの娘の身体に流し込む。貴様にやったときの様にな。そうすれば私の魔力が供給されてこの娘は助かる』
慎二は壁に拳を叩き付けた。傷口が熱さを増し、包帯に血の色が滲む。
「――ふざけるな! 美千瑠には危害を加えないと言っただろう」
『心外だな、助けてやろうというのに。そこまで言うのなら貴様に代案があるのだろうな。あるのなら言ってみるがいい』
「――」
『ふん、口だけか。……正直、私はこの娘がどうなろうと知ったことじゃない。あくまで善意で言っているだけだ。嫌なら止めても一向に構わないが、このままでは数時間でこの娘は死ぬ。それでもいいのか?』
拳を握り締めて壁に押し付けたまま、慎二は呟くように言った。
「…………魔力があればいいんだな?」
『ああ。だが、相当な量が要る。並の魔術師ではまず不可能だ。まして貴様は魔力を集積することすら出来まい』
「――コイル≠セ」
『何?』
「あの魔術師が言っていた……コイル≠ヘ魔力を生み出すんだって」
『……確かにそうだが、それは――』
「本物は、コイル≠起動できるんだろう? なら、彼女に頼めばいい」
『…………』
ぽつり、と食堂の窓ガラスを水滴が打った。
二回目、三回目と音が続き、徐々に間隔が狭まっていく。遠くで鈍い雷鳴が響き始めた。
すぐにも本格的に雨が降り出すだろう。
台所に戻ると、美千瑠は目を閉じて眠っていた。慎二は横に屈みこむと、美千瑠の身体を両腕に乗せて抱え上げた。そのまま食堂を通って玄関ホールに出、階段を昇る。
―どうするつもりだ―
途中、桂が無表情な声でそう言った。
(学校に行くよ。……僕は彼女の居場所を知ってるから)
―そうか―
それきり桂は黙った。慎二は美千瑠を抱えて自室に入り、寝台の上に慎重に降ろした。
美千瑠はいつの間にか目を閉じていたが、
「御牧さん……大丈夫」
と慎二が呼びかけると薄く瞼を上げた。
「慎二くん……ごめんなさい。また料理作れなかったわ。今度こそ、うまくいきそうだったのに」
言われてみると、美千瑠はブレザーを脱いでシャツの上にエプロンを着けていた。普段慎二が使っているものだったが、美千瑠には大きすぎて膝下まで裾が届いている。ケチャップやらソースやら、色々な染みが付いてしまっているのを見て、慎二は無意識に微笑んだ。
「ありがとう、御牧さん……」
慎二は汚れたエプロンを脱がせると、畳んで机の上に置いた。
「本当は私、もっともっと強いのよ……」
美千瑠が弱々しい声で言った。
「分かってる」
「悪い連中から、あの子を護るために、私はうまれたんだもの……」
「それも、分かってる――もう喋らないほうがいい」
「聞いて……敵に追い詰められて、あの子はあの部屋から出られなくなった。あの子から魔力を貰えなくなって私の力はどんどん弱まったわ……魔力を何とかしてあの子から受け取るために、私は色々考えた。でも、私は敵にマークされていたから、私があの部屋に近づけば絶対に場所がばれてしまう……誰か魔の釜≠ノ関わりの無い人の協力が必要だと思ったの」
「魔力を運ばせるために、か」
慎二がそう言うと、美千瑠は僅かに目を見開いた。
「どうしてそれを……」
「色々教えてくれる知り合いが、最近増えたんだ……一人はもう居ないけど」
慎二はわざと言葉を暈したが、美千瑠は詮索せず、
「そう……」
とだけ返した。
「私はあなたに誘導魔術をかけて、あの子の居る部屋まで行って貰った……あの子がどうやって魔力を渡したのか分からないけど、あなたはかなりの魔力を運んできてくれたわ」
慎二はあの殺風景な部屋でのことを思い出した。慎二はあの美千瑠と短い会話を交わしただけで、何かを受け取る暇などなかったように思ったが――
(あ、もしかして、コーヒーか?)
あの美千瑠と慎二が間接的に接触する機会があったとすれば、それ以外に考えられなかった。今となっては瑣末なことだったが、慎二は試しに訊いてみた。
「飲み物に魔力を混ぜることって、出来る?」
美千瑠は、ああ、と声を上げると、
「ええ、あるわ。紅茶とか珈琲とか……そうだったのね」
美千瑠も納得したらしく微かに顎を引いた。
「今朝の紅茶にも、すこし混ぜてあったのよ。気付いてた?」
「え、いや。全然」
「じつは……昨日の夜、あなたから魔力を受け取った時に、その、ちょっぴり抜きすぎちゃったのよね……それで、倒れちゃったから心配になって……」
(そういえば……あれを飲んでから、多少身体が楽になったような気がするな)
「食べ物にも入れようと思ったんだけど……失敗しちゃった」
それを聞いて慎二は思わず噴出した。
(しまった……また怒鳴られるかな)
「……ごめんなさい」
美千瑠はしおれた声で言った。慎二は予想外の反応に戸惑った。
「え……いや、そんな気にしなくても……誰にでも失敗はあるし」
「朝食のことだけじゃない……慎二くんを巻き込んだのは私なのよ。魔力さえ戻ればあなたをちゃんと守り切れると思っていたのに……」
「それにしては、銃を突きつけられたり、色々酷いことされた気がするけど?」
「な……そ、それは、――ひゃっ!?」
慎二は美千瑠の頭を、くしゃくしゃっと少し乱暴に撫でた。
「まあ、なんだ、その……美千瑠はもう十分、がんばったよ」
慎二は美千瑠の顔から視線を逸らして、あさっての方向を見ていた。
「だから、今はゆっくり休んで。……ね?」
美千瑠は硬直したように慎二の顔を見つめていた。が、すぐに我に返ると、
「で、でも。……そうよ、さっき襲ってきた魔術師がまた来るかもしれない! まだ家の中に居るかも!」
と早口で慎二に言った。
「魔術師? どんな?」
「指から糸を出すスーツを着た男よ――油断している隙に魔術礼装を奪われて――」
「そいつなら――僕が倒した」
「え――?」
慎二は学生服から銀装飾の拳銃を取り出すと、美千瑠の手に握らせた。
「これが証拠。だから大丈夫」
慎二はそれだけ言うと、美千瑠の傍からゆっくりと立ち上がった。
扉に向かっていく慎二を美千瑠は呼び止めた。
「待って――どこに行くの?」
慎二は振り返らず、美千瑠を残して部屋を後にした。