第五章 悪魔の釜
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倒れている冴枝の傍に、慎二は片膝をついていた。
冴枝の身体には、草で切ったであろう掠り傷以外には、何の異常も見当たらなかった。気を失ってはいたが、冴枝は生きていた。
慎二は落ちていた美千瑠の拳銃を拾うと、前方の地面に向けて引き金を引いた。
乾いた破裂音が響いた。しかし、土を跳ね上げるはずの弾丸は、発射されなかった。
「やっぱり……」
装填されていたのは、火薬だけで弾頭がない。所謂、空砲だった。見た目は普通の銃弾と変わらないので、あの西尾という男は気付かなかったのだろう。
そして、やはり美千瑠は銃弾を使わずに撃つことが出たのだ。これもようやくはっきりした。もっとも、あの西尾という魔術師の不可思議な力を見せ付けられてしまった今では、魔法を否定するなど出来ない相談だった。
慎二はしばらく地面を見つめてじっと考え込んでいたが、再び顔を上げると慎二――の身体をした桂綾子に呼びかけた。
「先生は……全部、知ってるんですね?」
慎二はあえて漠然とした質問をした。
桂はすぐに返答した――慎二の口を通して。
『知っている。おそらく、この件に関わっている人間の中では、私が最も正確に事態を把握しているだろうな』
「そうですか……」
『意外に驚かないな。こんな状況なのに』
「この二日で、慣れちゃったんでしょうね……」
慎二は溜息をついた。それはどちらの意思で漏らしたものなのか、慎二自身にもよく分からなかった。
「度々僕の意識が飛んだのは、先生の仕業ですか?」
『その通りだが……何故そう思う?』
「気を失う前にはいつも吐きそうになったんですよ。そして今まさに、僕は猛烈な吐き気に襲われています」
『拒絶反応か。確かに、貴様の抵抗は凄まじかった……こうして私の意識を表在化させるだけで一日を費やすとは思ってもみなかった』
慎二は包帯が巻かれた手の平を見ながら言った。
「でも、身体はまだ乗っ取れていないみたいですね」
『ふん。そうでもないさ』
視界がフラッシュを炊いた様に赤くなった。両手が慎二の意思を無視して慎二の首を絞めた。
「ぐっ……」
―やろうと思えば貴様の身体などいつでも掌握出来る。覚えて置け―
頭の中で桂の声が聞こえた。直後、視界は元に戻り、身体も自由になった。
「げほっ……今のは」
―ひとつの頭に二つの意識が入っているんだ。わざわざ発声せずとも会話は出来る。互いの思考までは読めないがな―
再び桂の声が響く。慎二の口は動いていなかった。
慎二はひとしきり呼吸を落ち着かせてから、姿の見えない桂に言った。
「だったら僕の身体を常に乗っ取っておけばいいじゃないですか……なぜ僕の意識を残しておく必要があるんです」
―ふん。相変わらず嫌なところを突いて来る奴だ―
桂は今度は意識の中で溜息のようなものを吐いた。
―今、私が貴様の意識を奪ったとき、何か気付かなかったか?―
「え……っと、目の前が真っ赤になって」
―それが私の魔眼≠ェ発動している証拠だ。貴様と私の意識が混線しているらしくてな。貴様が魔眼を使っている間しか私はお前の身体を自由に出来ない。しかも長時間の魔眼の使用に貴様の身体は耐えられないと来ている。まあ、手足や口などの一部だけなら、魔眼を殆ど機能させずに済むようだが―
慎二は昨日見た桂の赤い眼を思い出した。
暮れかけた西日の中で桂の眼に魅入られた瞬間、慎二の意識は落ちたのだった。
―あの時、貴様の存在を私の存在で上書きすることで、私は貴様の身体を完全に自分のものにするつもりだった。だが、あと少しというところで邪魔が入り、上書きに失敗してしまった……おかげで今はこのザマだ―
「美千瑠ですか……」
『あれは御牧美千瑠ではない』
桂は再び慎二の口から声を発した。
『あれはただの分身だ。御牧美千瑠の本体は上ヶ崎高校のどこかに居る』
「どこか?」
『貴様はその場所を知っている――いや、貴様しか知らないはずだ』
「僕しか知らない……?」
あの部屋のことだ、と慎二は思った。
聖域≠フ突き当たりの細い通路の奥――錆びた扉の先に居た御牧美千瑠。彼女こそが本当の御牧美千瑠だと慎二はようやく思い至った。
「先生もコイル≠探してるんですか……? さっきの人と同じで?」
『あんな下衆と一緒にするな。私は魔の釜になど興味はない』
「じゃあ、何のために……彼女の場所を訊こうとしたんです?」
慎二の問に桂は黙ったが、それも一瞬だった。
『それは言えん』
「なぜ」
『それも言えん。……だが安心しろ。コイル≠奪取するために御牧美千瑠に危害を加えたりはしない』
「本体には、ですか?」
『……分かった、分身の方の安全も保障しよう。私を殺した恨みを返してやりたいが、貴様がそれ程あれに執心しているなら、別に構わんさ』
桂が茶化すようにそう言ったが、慎二は何も言い訳をしなかった。
「美千瑠は……今どこにいるんですか……」
『ふん……分身のことだな? 魔術師がここで罠を張っていたことを考えると、この邸内に居るだろう。微かだが魔力も感じる……かなり弱っているが、たぶん、生きている』
その言葉が終わらない内に、慎二は扉へと駆け出していた。