第二章 闇夜の告白
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朦朧とした意識の中でそれはいつまでも続く悪夢のように思われた。
追って来るものが気になり慎二は暗闇の中で振り向く――そこにあったのは、見覚えのある姿。
真っ赤なスーツを着た、桂綾子の首の無い死体が立っていた。
「あああああああ――――!!!!!」
自分の絶叫する声で、目を覚ました。
「っはあ、はあ……――?」
最初に見えたのは天井だった。さっきまで居た自分の部屋の、見慣れた天井だ。
「…………っ!」
いきなり鳴り始めた目覚まし時計の音に驚き、反射的に周囲を見回す。
室内に御牧美千瑠の姿は無い。
枕元にあった目覚まし時計のアラームを止め、慎二は横になっていたベッドから身体を降ろした。
(――僕は……寝ていたのか?)
わからない。さっきの眩暈はまだ微かに残っている。昨日の記憶も鮮明に残っているが――まさか全てが夢だったというのだろうか?
時計を見ると、時刻は午前七時四十五分を示していた。
学校までの距離が長いため普段は六時半に起床している慎二にとって、これは歴史的な大寝坊である。十分以内に支度をして全力疾走すれば始業になんとか間に合う時間ではあり、だからこそ念のためこの時間に目覚まし時計をセットしてあるのだったが、今朝は異常なまでに全身がだるかった。十字路からの坂を一息に駆け上がることなど出来そうもない。
慎二はベッドからゆっくりと腰を上げると、軽い吐き気に襲われた。心臓が萎縮するような苦痛に胸を押さえる。
「――――……ふぅ」
治まった。こんなことは慎二には珍しいことだった。
(悪い夢を見たせいかな)
首をかしげながら、ドアを開けて部屋を出た。
廊下を歩きながら、慎二はぶるっと身を震わせた。
(今朝は冷え込むな……)
肩を抱きながら階段を降り、一階のホールへと出る。冷え切った大理石の床が慎二の足の裏を刺した。
(っ――しまった、部屋でスリッパを履いてくるのを忘れた)
昨日といい今日といい、慎二らしくもないミスが多かった。やはり体調が悪いのは確かなようだ。いっそのこと、今日は休んでしまおうか――。
そう思った時、慎二は妙な事に気がついた。
異臭だった。階段に向かって左側の食堂へと通じる扉――その奥から臭いは伝わってくる。
慎二は急いで扉を開けた。
食堂には煙が充満していた。焦げ臭いにおいが慎二の嗅覚を刺激する。
「――――な」
絶句しつつも慎二は火元を探った。視界が遮られて見づらかったが、煙は食堂の奥から流れてきているらしい。慎二が昨日使ったキッチンで何かが起きたようだった。
もうもうと立ち込める煙の中を慎二は姿勢を低くして進んだ。
火元に近づくにつれて煙は徐々に濃くなっていった。咳き込みそうになるのを抑えながら、慎二は一気にキッチンに飛び込んだ。
そして、見た。
白煙を際限なく吐き出しているフライパンの中で、もはや炭化して原形を留めていない黒々とした何か。
まな板の上で無残な残骸を晒している魚介類の数々。タコイカ達の冥福を祈る。
「…………ごめんなさい」
そしてキッチンの床一面に散乱している色とりどりの野菜の破片に囲まれて、御牧美千瑠が呆然と慎二を見上げていた。
「――何、やってるの」
沈黙を破った慎二の第一声はそれだった。美千瑠は台所の真ん中で呆けていたが、
「朝ごはん、作ろうと思ったんだけど……」
と悲しげに周りを見渡した。
実際聞くまでも無く、そこら中に料理をしようとした痕跡が散らばっていた。
「え、えーと。なんで?」
そう言ってしまってから、慎二はなぜか自分がひどくデリカシーに欠ける人間であるような気がした。同時に、どうして自分はこんな暢気なことを言っているのか不思議だった。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて……どうして料理をしようなんて思ったの?」
そういうお前も、どうして殺されそうになった奴に気配りなんてしてるんだ?
「とりあえず――窓を開けよう」
「え。……う、うん」
慎二と美千瑠は三箇所あった窓を全て開け、さらに換気扇を回した。やがて煙と焦げ臭さは薄れていったが、それにより周囲の惨状がより鮮明にさらけ出された。
「ええっと……じゃあ、掃除、しようか?」
「そうね……」
慎二は別室から箒と塵取りを取って戻ってくると、塵取りを美千瑠に渡して床を掃き始めた。
(一体、何をやったら、ここまで汚せるんだろう……そして僕は何やってるんだろう……)
床に散らばっている食材は細かい破片になっているものが多かった。それは包丁で切ったというよりも、まるで爆発によって粉々にされたような断面をしていた。
「ごめんなさい……なんでかわからないけど、フライパンの中身が爆発しちゃって……」
(ありえないだろ!)
と慎二は心の中で突っ込んだが、あえて口には出さずに、
「そっか……早く片付けちゃおう」
と優しく促した。同時に慎二は確信していた。昨日のは全部夢だ。そうに違いない。
「……………………」
美千瑠はそれからは無言で俯いて塵取り役に専念していた。
三十分程経った頃には床から焦げ付いたコンロの周りまで大方の掃除が終わっていた。
「ふう。集中してやれば何とかなるもんだね!」
と、慎二は出来るだけ美千瑠を励ますように明るい声で言ったが、当の美千瑠は丸椅子に座り込んで可哀相なくらいにしょげていた。
(本当、どうしたんだろう?)
慎二は妙にしおらしい美千瑠の様子を不思議に思いながらも、掃除用具を片付けに一度台所を出た。
慎二が再び食堂に入ってくると、美千瑠は丁度台所から何かをお盆に載せて出てくる所だった。
美千瑠はそれを食堂のテーブルに載せると、すぐ傍にあった背もたれの付いた椅子にちょこん、と控えめな様子で腰掛けた。
それは紅茶セットだった。昨日慎二が使ったのと同じものだ。
美千瑠は自分が運んできた紅茶セットをじいっと一心不乱に見つめていたが、突然、
「今っ!」
と小さく叫ぶと慎二を手招きした。
呼ばれた慎二が隣の席に着くと、美千瑠はティーポットから紅茶をカップに注いで慎二の前に据えられたソーサーの上に置いた。
「今っ! 飲んでっ!」
必死な様子で急きたてる美千瑠の妙な気迫に圧されて、慎二は紅茶を一口啜った。
直後、慎二は思わず感嘆の声を漏らした。
「これは、美味しい……!」
たった一口で、琥珀色の紅茶に閉じ込められていた芳香が鼻腔いっぱいに広がり、ストレートティーにも関わらずほのかな甘さが舌の上を転がった。
「そうでしょう、そうでしょう」
心配そうに慎二の反応を見ていた美千瑠は、そう言うと満足げな笑みを浮かべた。
「やっぱり、私には紅茶が一番だわ……爆発しないし」
美千瑠はそんな事を呟きながらしきりに一人で頷いている。
(紅茶って、淹れ方一つでこんなに美味しくなるんだ……)
素直に感心している慎二の横で、美千瑠は嬉しそうに自分のカップにも紅茶を注いでいる。
慎二はその横顔に一瞬見惚れたが、すぐに気を取り直した。
(何考えてんだ僕は……この子は人を殺してるんだぞ……油断は出来ない)
そうだ。僕は何を寝ぼけてるんだ? 昨日のは夢? そんな訳はない。昨日の出来事は間違いなくあったことだ。
紅茶の二口目を啜りながら、慎二は美千瑠に尋ねた。
「ねえ御牧さん……朝食作ったり、紅茶を淹れてくれたり……ずいぶん僕に良くしてくれるけど、どういう風の吹き回し?」
美千瑠はそれを聞くとぴくりと肩を震わせて、紅茶を注ぐ体勢のまま慎二を見た。
「ど、どうしてって……私は基本的に優しいわよ?」
「そうかなあ。昨日は僕のこと脅したりしてなかったっけ?」
言い過ぎか、と慎二は思った。この少女を挑発するのは危険だ。昨日なんとか奪った銃も今は手元にない。おそらく気絶している間に取り返されたのだろう。
だが美千瑠のおどおどした態度を見ていると、慎二は場違いながら、ついちょっかいを出したい衝動に襲われるのだった。
「人の善意は素直に受け取るものよ、慎二くん」
美千瑠は頬を膨らませて慎二を睨んだ。
「それに――私もちょっとやりすぎたと思っているし。正直意外だったわ。あんなに拒絶反応が出るとは想定していなかったのよ」
「拒絶反応?」
「ええ。おかげで十分な魔力提供が受けられなかったわ」
まだ何を言っているのか分からない。慎二は溜息混じりに問う。
「ごめん……全然話が見えないんだけど」
一瞬きょとん慎二を見つめた美千瑠は、ああそうか、と一人ごちた。
「そうだった。まだ説明が途中だったのだわ。私、さっきのでちょっと慌ててたから、話が飛んでしまったみたい。ごめんなさい」
「まあ、僕はいいけどさ」
全然良くはなかったが、慎二は半ば諦めかけていた。魔法だなんだという話になった時点で、慎二はついていけない。そもそもこの事件のことだって、慎二は巻き込まれただけの被害者だ。そして不運にも目の前の少女を匿う羽目になってしまった。魔法があるにせよないにせよ、今後の身の振り方について選択権がないことだけは確実のようだった。
少女は立て続けに失態を晒したことが悔しいのか、僅かに俯きながら「今更だけれど、説明するわね」と前置きして話し出した。
「魔法使いはそれぞれ使命を持っています。魔法使いはその道を極める程に人間の常を離れ、別の存在へと変容していく――魔術師達はそれを神や悪魔と呼ぶけれど、正確にはそうじゃないの。魔法使いはどこまでいっても生身の人間。人の肉体を持ったまま神秘を極める者だけが、魔法使いだと、私は思っているわ」
あまりにも唐突で、説明というより独り言としか思えなかったが、美千瑠の淡々とした口調には、相手に耳を傾けさせる真摯さがあった。
「そして人である以上、魔法使いにも現世で果たすべき義務――使命がある。魔法の力を自分のために使うことのみに満足していてはいけないのよ」
「そうかな」突然慎二が口を挟んだ。「たとえば僕はただの人間で、この世に生きているけれど、今は自分のことで精一杯だよ。使命なんて考えたこともない。それはいけないことかな」
「そうは言っていないわ。あなたは魔法使いじゃない。責任は強大な力を持つ者だけが負えばいい。あなた達は守られていればそれでいいのよ」
そう語る美千瑠の目は自身と誇りに満ちているように見えた。
「なるほど。それが君達魔法使いの使命ってわけ」慎二は柄にもなく皮肉を言った。「魔法を使えない可哀相な僕達を守ってやるってか。ところで、僕は昨日君に殺されかけたわけだけど、あれもその一環なのかな?」
「っ! あれは……」美千瑠は痛いところを突かれたのか眉を寄せ、言い訳するように早口になる。「……違うの。……本当はもっと穏便にやるつもりだったのに、あんなことになっちゃって……どうしても、あなたから魔力を受け取らなくちゃならなかったから、手荒な方法になってしまったのよ」
「魔力って……僕から?」
慎二は思わず聞き返す。美千瑠は慎二をじっと見据えていた。形のいい唇が硬く引き結ばれている。重大なことを口にしようとしているような、そんな緊張がみてとれた。
「まさかとは思うけど……僕も魔法使いだー、なんて言わないよな」
「そうではないわ。そうではないけれど……」美千瑠はいよいよ歯切れが悪くなる。「それを説明するには、私の使命について説明しないといけないわ」
「……いいよ、どうせ遅刻は確定だから」
慎二が言うと、美千瑠は数秒の沈黙をおいて語りだした。
「……かつて私達の高校に偉大な二人の魔法使いがいた。彼らは魔術の見地から言って途方もなく強力な『あるもの』を造ることに成功したけれど、それはあまりに、恐ろしい力を持っていて……万が一にも奪われることがあれば、この世界は無事では済まない程のものだった。彼らはその破壊に失敗し、仕方なく自分達の通っていた高校に封印することにした。――そこはかつて霊験を誇っていた山中の聖域で、彼らの力を補助してくれたから。彼らはその装置――『魔の釜』を消去する方法が見つかるまで、その封印が解けないよう、他の魔法使いや魔術師にも協力を仰いで、何重にも結界を敷いたの」
美千瑠はそこで言葉を切り、大きく息を吸い込み、目を閉じた。
「でも、仲間だと思っていた魔術師に裏切られたのよ。装置を封印してから十数年が経って、二人の警戒の目が僅かに緩んだその時を突いて、魔術師は『魔の釜』を奪おうと画策した。二人が気づいたときには既に遅かった。結界の構成に参加していた魔術師はその弱点も熟知していた。魔術師は突破に成功し、『魔の釜』を起動した。そして」
少女は躊躇うように口を噤み、そして言った。
「二人は『魔の釜』を鎮める代償として命を捧げることになった。二人が張った結界は消えてしまい、今は私が『魔の釜』の守護にあたっている――というわけ」
長々と語って乾いた喉を、美千瑠は紅茶で潤す。慎二は呆然として訊いていたが、ふいに浮かんだ疑問を口にした。
「なんで君が守ってるんだ? まだ僕と同じ高校生じゃないか。一体いつからこんなことをしてるんだ?」
美千瑠はカップを静かに置くと、慎二を見つめていった。
「十年前からよ」
「な――」
十年前? 十年前って何だ。まだたったの七、八歳じゃないか。丁度、両親が消えたのと同じ頃――。
続く言葉に、慎二は耳を疑うしかなかった。
「ちなみにその二人は――桐嶋仁と桐嶋春香――という名だったと聞いているわ。あなたのご両親ね?」
慎二は絶句していた。美千瑠は淡々と言葉を繋ぐ。
「そして彼らによって生み出された使い魔である私――御牧美千瑠は、彼らの死と同時に自由な魂を得た。人間となった私は、『魔の釜』を守護し封印するという彼らの遺志を受け継いだ。そして魔法使いとなり、こうしてあなたの前にいる」
沈黙と紅茶の香りだけが漂う食卓で、慎二はただ目の前の少女を見つめることしか出来なかった。