By the words of WIZARDS

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  •   第二章 闇夜の告白  

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    「なあ、そろそろ話してくれないか」
     美千瑠はカップに注がれた紅茶の水面を難しい顔で見つめている。慎二の声が耳に入っている様子ではなかった。
     慎二は結局、美千瑠がくれた説明書を殆ど読まず、曖昧な知識を頼りにミルクティを淹れた。所詮は湯を沸かして茶葉をいれたポットに注げば出来るのが紅茶である。慎二はわりとまともに淹れられたと思っていたのだが、少女の顔つきでは、どうやらお気に召さなかったらしい。慎二はだんまりになった少女の注意を引こうと必死に話しかけていたのだが、少女は一向に反応を示さない。
    「約束だろ? 家に匿ったら、説明してくれるって言ったじゃないか」
    「……茶葉は悪くないのよ」
    「え?」
    「いいえ……むしろ最高級の部類と言ってもいいくらい……それなのに……ポットを事前に暖めなかったせいでお湯の温度が下がって香りが死んでる……ミルクも入れすぎ……しかも冷たいまま……飲めたものじゃないわ……」
    「……贅沢なやつだなあ。それなら自分で淹れればよかったじゃないか」
    「何言ってるのよ!」
     身を乗り出して、バンッ、と握り拳を机に叩き付けて美千瑠は恐ろしい剣幕で叫んだ。心なしか目が血走っている様に見える。机の上に置かれたティーセットが小刻みに乾いた音を立て、その音が収まりきらないうちに再び美千瑠は言った。
    「これだけの良い茶葉が作られるのに、いったいどれだけの手間と暇と労力が費やされたと思っているの! 茶葉農家と茶葉加工業者の方々に謝りなさい! ……うう、私だってこんな良い紅茶、そんなに飲んだことないのに……とにかく謝る!」
    「……ご、ごめんなさい?」
    「誠意が足りない! 見えない! もっと謝れ!」
    「ごめんなさい……」
    「あと百回!」
    「ええっ?」
    「文句言うと十倍にするわよ!」
    「はい……すみません……」
    「まったく……あなたには二度とお茶は頼まないわ。私の完璧なマニュアルも渡したのに、才能がないのよ、才能が」
     一応、生徒会のお茶汲み係と呼ばれている(実際には一度も汲んだことが無い)慎二のプライドは僅かに傷ついたが、こんなに蔑まれるくらいなら二度とお茶など淹れない方が良いに決まっている。
     漸く落ち着いたのか、美千瑠は乗り出していた体を引いて再び紅茶を飲み始めた。
    「あれ、結局飲むんだ」
    「だって、もったいないでしょ」
    (飲めたものじゃないとか言ってたくせに……)
     慎二はその言葉をぐっと飲み込んで、
    「それじゃあ、今度こそはぐらかさないで話してくれよ」
     と、既にお代わりをカップに注いでいる美千瑠に言った。
     しかし美千瑠は紅茶を飲むだけで口を開こうとはしなかった。慎二が再び催促すると、躊躇いがちに彼女は言った。
    「やっぱり、話さなきゃだめ?」
     慎二は呆れたように声を上げた。
    「何言ってるんだよ、そういう約束だろ? それに、さっきは自分から話そうとしてなかった?」
    「うーん、そうなんだけど……ぶっちゃけて言えば、あんまり面白い話じゃないというか……よく考えたら聞かないほうがいいかもしれないというか……」
    「どうして」
    「あなたに余計な危害が加わるかもしれない」
    「へえ、そうなんだ」
    「そうなんだって……何とも思わないの?」
    「どこかの誰かさんにごつい拳銃を後頭部から突きつけられたり首なし死体を見たりしたおかげで、普通の感覚なんてとっくに麻痺してる。今の僕なら大抵のことは受け入れられる自信があるよ」
    「………………」
    「まあ、僕のことは気にしないで話してよ。そのせいで危ない目にあっても自業自得だし、君が気にすることじゃないだろ?」
    「あなたに死なれたり怪我されたりしたら困るのは私も同じなんだけどね……まあいいわ」
     美千瑠はそう言うと紅茶カップをソーサーの上に置き、両手を膝の上に揃えて居住まいを正した。今まで慎二は気付かなかったが、美千瑠は膝上まである黒い靴下を履いていた。行儀良く揃えられた細い足に、それはかなり似合っていた。
    「最初に言っておきます……私は―――です」
     意識が逸れていた慎二は突然語り出した声に不意を突かれ、不覚にも一部分を聞き取り損ねてしまった。仕方なく、慎二は訊き返した。
    「…………ごめん、今何て言った?」

    「――私は魔法使いです」

     慎二の思考が一瞬停止した。予期していた内容との乖離があまりにも大き過ぎたためか、その単語を理解するのに数秒を費やさなければならなかった。
    「……はい? マホウツカイ?」
    「もう。大抵のことは受け入れられるんじゃなかったの?」
    「いや……え? ちょっと、あの、何ていったらいいのか……想像していたのとちょっと、いやかなり違った、かな……?」
    「面倒ね……だから、話したくなかったのに……」
    「でも、さ。そう簡単に信じろって言われても……君の拳銃のことといい、桂先生を簡単に殺してしまったことといい、僕はてっきり、もっと血生臭い事だと思っていたよ……」
    「ふぅん、そういうこと」
     美千瑠はブレザーのポケットから拳銃を取り出すと、それを両手に持って愛おしげに撫でた。
    「確かに普通の魔術武器とは違うかもしれないわ……」
    「魔術武器?」
    「そう。聞いた事くらい、ないかしら?」
    「いや、全然……」
    「そう。……ますます面倒ね。あなたって魔法とか魔術とか、あまり興味ないタイプでしょう」
    「皆無だね。僕はそういう根拠の見えないものを信じられないから」
    「こっちとしても、本来ならその方が有り難いのだけど……自分が魔法使いだと信じさせる必要なんて今まで一度もなかったし……むしろ、気付かれると厄介な事が多いくらい」
     早々に困り果てている様子の美千瑠に、慎二はふと思いついた事を言ってみた。
    「ええっと、一つ提案があるんだ。現代において、自然科学――物理とか化学とか――は、殆ど完全と言っていい程の信頼を勝ち得ているけど……その基盤となっているものは何だと思う?」
    「……理論、かしら。幾つかの前提を認めて勉強すれば、最後には誰もが理解できて、正しい現象の結果を導き出せる理論構成。……魔術が普及しないのも、この理論が万人に会得できるものではないから……って、前に知り合いの魔法使いが言っていたわ」
    「うん、そうかもしれない……でも、自然科学の信頼性は、もっと別の部分に根ざしているんだ。さて何でしょう」
    「……うーん、わからないわ。というか、この話、さっきの提案っていうのに関係あるの?」
    「関係おおあり。……正解はね、実験だよ。君も言った通り、いくら緻密な理論構成があっても、最初の前提、つまり公理≠認めなければ議論が進行しない……だから一応それを認めてしまうことにする……これはどんな理論でも同じことだね。最も典型的なのは数学だけれど」
    「そうね……魔術にも、魔法にも公理はないわ。いいえ、公理だらけ、というべきなのかしら?」
    「君が知らないなら、僕にもわからないよ」
     慎二がそう言って笑うと、美千瑠も「適当なのね」と返して笑った。
    「でも思考の中だけで済ませられる数学と違って、物理や化学など実生活に直接響いてくる科学は、理論だけでは片手落ち……『理論通りの結果が実際に出る』という保障が必要なんだ。それが所謂、実験だね」
     ここまで聞いた美千瑠には慎二の「提案」の内容が分かった気がした。
    「ああ、そういうこと……つまり、私に実験≠オてみせろ、というわけね。実際に魔法を使って」
    「平たく言えばそういうこと。……君が魔法でしか出来ないような事を、僕の目の前でやってみせてくれたら、一応信用するっていう話。どうする?」
    「どうするも何も、それが一番てっとり早そうね」
     美千瑠はそう言うと、手にした拳銃の銃口を上に向けて構え持った。灯りの下で初めて見るそれはやはり少女の手には大きすぎるように思えた。しかしその事よりも信二の目を引いたのは、拳銃の表面に隙間なく掘り込まれている紋様や装飾文字の数々だった。
    「……その模様」
    「この銃は魔術礼装でもあるのよ……って言ってもわからないか」
     美千瑠は片手でグリップ内に収まっていた弾倉を滑り出させると、拳銃を慎二に投げてよこした。ずしり、とした重量を感じながら慎二は受け取った拳銃を眺めた。グリップから銃身にかけて彫刻の溝が枝分かれしながら走っており、そこに溶かされた金属が流し込まれている。拳銃の黒い下地との対照(コントラスト)の中で映えるその装飾は、見る者に美しさと妖しさを同時に感じさせた。
    「魔術礼装……魔術武器もその中に含まれるわ。魔術師が自分の想像(イメージ)を喚起するために使う道具よ……そうね、魔法使いと言ったら何を思い浮かべる?」
    「え……っと、箒とか帽子とか、あとは杖とか」
    「その杖みたいなものだと思ってくれればいいわ。昔話の中の魔女は、魔法を使う時に杖を振るでしょう? 魔法使いや魔術師は、自らの意志を現実に投影するための媒介として象徴(シンボル)を用いて修行を積むの。最終的には魔術武器は必要なくなるのだけど、その後も使い続ける人は多いわ……」
    「えーっと、話を整理すると」
     頭が混乱し始めた慎二は、拳銃を美千瑠に返しながら、とりあえず口を挟んだ。
    「その拳銃が、君の……魔術武器で、それを使って魔法を起こすってこと?」
    「ちょっと語弊があるけど……実際に理に干渉するのは私の意志そのものだから……まあでも、そんなに間違ってはいないかな。そう、テレビのリモコンみたいなものなのよ。なくてもそんなに困らないけど、あった方が便利でしょう?」
     妙に俗っぽい美千瑠の喩え方に、慎二は思わず噴き出した。
    「な、なによ。失礼ね」
    「いや、ごめん……ということは、魔法使いの杖は、本当は杖に限らないってわけだね?」
    「そうよ。一般的には『杖(ワンド)、杯(カップ)、剣(ダガー)、盤(ディスク)』の四つの内から自分に適したものを使うことになってるわ。この基本の四つを魔術武器って呼ぶことが多いわね。魔術礼装は術者の能力を補助する道具全般を指すものだから」
    「ふうん。じゃあ、どうして?」
     美千瑠は慎二の問の意味が一瞬理解できなかったが、慎二の視線の先にあるものに気付くとすぐに答えた。
    「ああ、……さっきも言ったけど、私の魔術武器は特殊ね」
    「それってもしかして……君が魔法使いだってことと何か関係がある?」
     何となく発した慎二の疑問に、美千瑠は驚愕の表情を浮かべた。
    「その通りよ……どうしてわかったの!」
     少女の思った以上に激しい反応に戸惑いながらも、慎二は答えた。
    「いや、確証があったわけじゃなく……ただ、気になったんだ。さっきから君は『魔法使い』と『魔術師』って言葉を使い分けてただろ? 君は魔法使いだって名乗ったけど、魔術師だとは言わなかった。僕はどっちも同じだと思っていたけど、もしかしたら、ってね」
    「…………」
    「違った?」
    「いいえ。……大正解よ。魔術師は四大元素≠基礎とした魔術理論をもとに修行を積むから、魔術武器もさっきの四種類のどれかってことになるわ。でも、私はそうじゃない。魔法使いの私は、その枠には収まらない。というより、もともと四大元素≠ネんて分類が必要ないのよ」
    (…………?)
     美千瑠の言い方に慎二はどこか引っ掛かりを覚えた。慎二が自分で指摘したこととは言え、『魔法使い』と『魔術師』の違いに対する彼女の反応は過剰すぎるように思えたのだ。
     しかし慎二はそれに触れることを止め、話を元に戻すことにした。
    「魔法使いが拳銃を使うこともあるってことは分かったよ……但し、言っておくけど、僕はまだこれっぽっちも君の話を信用していないんだ。……実験≠してみせてくれないか」
    「あら、そうだったの? 後一押しだと思っていたのだけど」
     そう言って、美千瑠は軽く微笑んだ。
     そして突然、慎二に銃口を向けた。
    「それなら……ご要望どおり、あなたを信じさせてみせるわ」
     慎二は紅茶セットの横に置かれた弾倉に目を移し、再び自分に向けられた拳銃を見た。
    「じつは――実験はとっくに終わっているのだけれどね」
     再び銃を構えなおしてニコリと微笑んだその表情に、慎二は何故か寒気を覚えた。
    「さっき渡したもの、持ってるわね? それが結果よ」
     慎二はその瞬間、美千瑠が何を言っているのか、理解した。
     手の中のマガジンを慎二は再び見る。
    「弾が……減っていない」
     マガジンの平たい側面のスリットから、鈍い光を放つ銃弾がぎっしりと詰まっている様子が覗く。マガジンの銃弾は一発も使われていない――。
     桂綾子を倒したのは、拳銃から発射された弾丸ではなかったとういことか。
     背筋を硬直させ微動だに出来ないまま、美千瑠の構えた拳銃と向き合っている慎二の心は後悔の念に占められていた。何故、自分はこの少女にここまで気を許してしまったのだろう。
    「――銃弾の入っていないこの拳銃で、私はあなたを撃つことが出来る。やってみなくてもわかるでしょう?」
    「いいや……まだだ。その程度のトリックで僕が騙されると思うか?」
    「……ふうん」
     美千瑠は不敵な慎二の態度に面食らったのか、意外そうに目を丸くした。
    「意外としつこいのね。私の魔法がまだ信じられないってわけ?」
    「当たり前だ。簡単に鵜呑みにしてたまるかよ。思考を放棄しない程度のプライドはあるんでね、人間として」
     眉を顰める美千瑠に気づかず、慎二は反撃を開始する。
    「まず、この弾倉だが」
     慎二は受け取ったマガジンを美千瑠に突きつけるようにした。美千瑠は剣幕に圧されて僅かに後ずさる。狙い通りだ、と慎二は思った。
     「確かに弾は充填されている。しかしこれじゃ何の証明にもならない」
    「証明? 何のことかしら」
    「とぼけるな。桂先生を殺したのは銃弾ではないと言って、君はこの銃倉を僕によこしたんだったな。一発も弾が使用されていない証拠として」
     当然のことを自信満々に繰り返す慎二の様子に、美千瑠は嫌な予感を覚えた。この男、何を企んでいる。
    「そうよ。その二つは同じことだと思うのだけれど?」
    「違うね」
     慎二は言うと同時に、強烈に床を蹴り、正面の美千瑠に飛び掛った。警戒していたのが功を奏し、美千瑠の身体は間一髪で慎二の腕を逃れる。だが、勢いのついた身体は支えを失い、そのまま背中から床に倒れこみそうになる。
    「くっ……」
     美千瑠の判断は速かった。勢いを一切殺さず、カーペットの床を両足で強烈に踏み蹴って、自ら後方への身体の流れを加速させた。同時に全身をしなやかに捻り、見事な奇跡を描いて空中を回転させる。数瞬の滞空を経て数メートル離れた床に着地した美千瑠は、慎二の二度目の襲撃に備えて身構えた。
    「すごいね。それも魔法?」
    「あ……」
     慎二は拳銃の射線を美千瑠に向けて立っていた。バク宙をする直前、慎二から逃れるために手放した拳銃である。
    「君も意外に迂闊だね。戦いの重要なカードを手放すなんて」
    「礼装を奪われた……そんな……」
     美千瑠は構えを解く事も忘れ、呆然とした顔で慎二を見ていた。
     ……なんだか都合が良すぎないか? 一か八かで賭けに出てみたが、まさか自分から銃を手放してくれるとは思わなかった。慎二はかすかに疑念を抱いたが、今はそんなことに悩んでいる場合ではない。
    「どうしてそんなに怯えてるんだ? ほら、銃倉はまだここにある」
     慎二は銃弾が詰め込まれた棒状の弾倉を銃を構えていない手で銃弾が詰め込まれた棒状の弾倉を再び掲げてみせる。
    「そうだよなあ、怖いよなあ。だって、弾倉が抜けているからって、銃から弾がなくなっていないことにはならないもんなあ?」
     公園で自分の拳銃――魔術礼装だったか――の整備を美千瑠が行っていたときのことを慎二は思い出す。彼女はその最後に、オートマチックピストルの上部のスライドを手前に引き込んでいた。それはつまり。
    「君は銃の薬室に弾を装填したんだ。仮に桂先生を撃った後に補充していたとしても、装填した時点で弾倉から弾が減っていないわけがない」
    「――」
    「けど実際には減っていない。それは何故か。理由はいくらでも考えられるさ。僕は君の銃をずっと監視していたわけじゃないからな。もう一度補充する機会はあったはずだ。ポケットに予備弾倉でも隠し持っておけば、そこから移動させるのはわけないはずだ……少なくとも君は、僕みたいな素人じゃない」
     とうとうと語る慎二の言葉を聞いているのか、いないのか。ようやく構えを解いた美千瑠は腰の横に下ろした両手を震わせていた。
    「返しなさい」
     美千瑠の声は落ち着いていた。にもかかわらず、慎二は突如として恐怖した。
    「私の礼装を」
     淡々とした口調の間からこみ上げるような怒りが伝わってくる。
    「……そうはいかないよ」
     危険を感じた慎二は美千瑠に狙いを合わせ直す。
     薬室に装填された、たった一発の弾――慎二が手に入れた唯一の逆転のカードだった。目の前の少女は魔法使いを名乗った。身体能力も相当にある。だが銃弾を受けて無事な奴はいないだろう。もしそうでないのなら――そいつはもう人間ではないのだ。初めから勝ち目などありはしない。
     美千瑠は感情の見えない目で慎二を見ていた。慎二は気圧されそうになるのを堪えて続けた。
    「魔法だか魔術だか知らないが、所詮拳銃。殺人の道具だ。誰にだって――僕にだって使える」
    「そうね。でも、あなたは私を殺せない……こうなったのも、かえって好都合なくらいよ」
     その時、唐突に、慎二は気がついた。
     美千瑠の眼が金色に光っていることに。
    (何――)
     直後、慎二は強烈な痛みを感じ、同時に猛烈に立ち眩んだ。体内から血液を搾り取られるような感覚。爪先から重力に逆らって逆流し、慎二の腹を伝い、腕へと吸い込まれていく――急速に遠のく意識のなかで慎二は見た。
    「ちょっと苦しいかもしれないけど……我慢して頂戴?」
     慎二の右腕に無数の錐状の物体が突き刺さっていた。滑らかな金属製のアイスピックの剣山が右腕を囲むように等間隔に突き立っている。そして剣山の台座に当たる部分――アイスピックの柄といってもいい――は、慎二が握っている拳銃だった。黒光りする銃身の表面で白銀に煌いていた模様めいた糸が、今は慎二の腕を鋭角に抉る槍と化し、まるでその中を慎二の血液が通っていくように、紅く色を変えながら脈動していた。
     手足の感覚が喪失しているにも関わらず、暗闇の中を一人きりで何かから逃げているような、パラドックスに満ちた悪夢に落ちていく感覚に襲われる。
     無意識の闇に落ち込む寸前、僅かに残った視界の先に映る美千瑠に向けて、慎二は拳銃の引き金を絞ろうとした。しかし指先には既に僅かな力も残っていなかった。
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