第二章 闇夜の告白
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慎二が落ち着いた思考を取り戻しかけた時には、完全に陽が落ちたのか、辺りは闇に浸かっていた。
桂綾子の襲撃があった交差点から一キロメートル程離れた、人気の無い小さな公園のベンチに二人の姿はあった。
教師の死体を前にして取り乱した慎二の肩を支えて、この公園まで連れて来た美千瑠は何を言うでもなく、慎二の横で拳銃の手入れに没頭していた。
拳銃の突起を一つ一つ美千瑠が点検する度、金属のパーツが、かちゃり、と無機質な音を立てる。
少女が握るにはどう考えても不釣合いに大きい拳銃を、美千瑠は手際よく分解して清掃し、再び組み立てた後、最終的な動作の確認をしているのだった。
一連の作業を横目で見ていた慎二は、未だにショックが抜けず良く回らない頭で、思ったことを口にした。
「………ずいぶん、慣れてるんだね。前にもこんなことを?」
慎二の言葉を聞いた美千瑠はぴたりと手を止めたが、それも一瞬だった。膝に広げたハンカチの上に置いてあった弾倉を拳銃のグリップに重々しい音と共に押し込むと、彼女は静かな声で答えた。
「そうだとしたら、あなたはどうするの? 私を警察に突き出す? それとも、一刻も早く逃げ出したくなるかしら」
公園には背の高い電灯が立っていた。遠くには街の灯りが小さく見えていたが、慎二達の視界を照らすものはこの電灯一つきりであった。光源を求めて彷徨う羽虫が数匹、虚しくその身を舞わせている。
それきり黙り込んでしまった美千瑠の横顔を眺めていた慎二は、自分が不用意な発言をしたことに思い至った。
「………ごめん。助けてくれた人に言うことじゃなかった」
「別に、気にしてはいないわ。感謝されるようなことをしたつもりもない」
「いや、一応言わせてほしい………ありがとう、助けてくれて」
「………どういたしまして」
再び沈黙が降りた。慎二は公園の白い砂場を見つめながら、美千瑠に何を訊くべきかを考えていた。
昼から今まで、不可解なことだらけの一日だったが、全てはあの金色の瞳から始まったような気がしていた。あの眼で見つめられてから慎二の脳裏には度々それが蘇っった。そのことが他のいくつかの出来事と無関係だとは、とても思えなかった。
慎二の横に座っている少女なら、この疑問に答えてくれるかもしれない。慎二を救ってくれた、金色の瞳を持つこの少女なら。
いや。きっと彼女にしか、この問いには答えられないだろう。
「君は何者なんだ」
冗長な前置きをすべて省いて慎二は美千瑠に尋ねた。慎二の数々の疑念はここに集約されていると言ってよかった。そもそもこの御牧美千瑠という少女が人間なのかすら、慎二は疑っていた。気づいた時には美千瑠の瞳は黒に戻っていたが、そんな芸当が出来る人間に慎二は出会った事がない。
「………私は御牧美千瑠。知っているでしょう?」
「もちろん知ってるさ。………でもそれは、ただの名前だろ」
「私もあなたのことは、名前しかしらない」
「そういう意味じゃ―――」
「あなたと私では何も変わらないわ」
嘘だ、と慎二は直感していた。この少女は、御牧美千瑠は、普通の人間ではない。尤も冷静に考えれば、人の頭を拳銃で打ち抜いて平然としている彼女も、その凶行を行った張本人とこうして会話をしている慎二自身も普通の精神状態であるとは言い難かったが、もはやそんな事は慎二にはどうでも良くなっていた。
跡形も無く消えてしまった通路の奥の小さな扉。その先で出会った少女―――彼女もまた御牧美千瑠だった―――と、今慎二の傍に居る御牧美千瑠との間には、相違があった。
瞳の色が戻ってしまった以上、学生服を着た美千瑠の容姿は一片の疑いも無くあの時と同じだった。しかし、慎二と言葉を交わしただけでコーヒーカップを取り落としかけた少女と、重量感のある金属の塊を軽々と扱う目の前の少女とが同一人物だとは、慎二にはどうしても思えなかったのだ。
双子、という可能性も慎二はもちろん考えた。だがもしそうなら、どちらかがもう一方の名を騙っていることになる。初対面の慎二を相手にそんなことをするのは不自然だった。
「それよりも」
と、言葉を継いだのは美千瑠だった。
「今は、あなたの身の安全を考えた方がいいと思うけど」
「身の安全?」
「そう。自覚がないかもしれないけど、あなたはさっき死にかけたのよ」
「死にかけたって、まさか、そんな」
「事実よ。………自分の体の中に意識を集中させてみて。まだあの女の毒≠ェ残っているはずだから」
慎二には彼女の言葉が理解出来なかったが、桂綾子が自分に何か≠したことだけは感じていた。
あの時からずっと、慎二の身体の中で確かに何か≠ェ蠢いていた。
「これが……命に関わるっていうのか……?」
「というより、本来ならとっくに手遅れになっているところ」
「本来なら……?」
「ええ。……感謝ならあの子にしてほしいくらい」
その言葉の意味も慎二には分からなかった。美千瑠はベンチから立ち上がると、拳銃を学生服のポケットに無造作に突っ込みながら言った。
「そろそろ行きましょうか? いつまでもこんな所にいたら怪しまれるわ」
「行くって、どこへ?」
「とりあえず、隠れられる場所。……思ったより時間もなさそうだわ」
どこか遠くで、事件を知らせるサイレンが響いていた。
二人が居た公園は下校のコースからやや外れていたものの、慎二の自宅はそこから徒歩で十分程の距離にまで近づいていた。慎二がそのことを告げると、美千瑠も「好都合ね」と快諾し慎二の家へ向かうことが決まった。
桂綾子に襲われた恐怖が抜け切らない慎二は、公園を出るやいなや通行量の多い場所に足を向けようとしたが、美千瑠がすぐにそれを制した。
「あの人の死体が見つかって警察が動いているわ。大通りは避けましょう」
もはや慎二には逆らう気力もなかった。なるべく人通りのない道を選びながら、慎二は自宅に向かって美千瑠の数歩先を進んでいく。
「………今更なんだけど」
道すがら、歩みを止めることなく慎二は言った。
「桂……桂先生は……本当に死んだんだね……」
「ええ。今頃は霊安室で身元の確認でもされているんじゃないかしら。顔が無いから難儀するでしょうね、きっと」
その言葉に、慎二は怒りを覚えた。桂綾子とは確かに折り合いが悪かったが、死んでほしいと思ったことなど一度もなかった。僅かばかりの同情も自責の念も感じられない美千瑠の態度は慎二にとって不快だった。
「君が殺したんだぞ……どうしてそんな、他人事のような言い方ができるんだ」
「そうしなければ、あなたが死んでいた」
「そんなこと、分からないだろ!」
「…………………」
堪りかねて慎二は叫んだ。知らぬ間に足も止まっていた。
「たとえそうだとしても、人を殺してまで、助けて欲しくなんかなかった! 他にいくらでも方法はあったはずだ!」
「うるさいな」
がちゃり、という音がして、慎二の後頭部に硬い物が押し付けられた。
「ウザいわよ、いい加減。あなたの命を救ったのは私。別に恩に着てもらおうってわけじゃない、必要があったから助けただけ。あなたには、ある役目を果たしてもらわなくちゃならない。つべこべ言わずに私の命令どおりに動いてくれればそれでいいのよ」
慎二は足の震えを悟られぬように力を入れた。
「………脅しのつもりかい? 無駄だよ。君は僕に死なれては困ると言ったばかりだ。僕をその拳銃で撃ってしまったら、何のために助けたのか分からなくなる」
「あら、そうでもないわ」
後頭部に当てられていた銃口が慎二の学生服越しに背中を擦りながら下がって行き、太腿の辺りで止まった。
次の瞬間、肩を掴まれて後ろに引かれると同時に、拳銃の先端を強く太腿の裏に押し込まれた。
「銃の的は頭や心臓だけじゃないもの」
「……………っ」
痛みで頬を伝う冷や汗を拭うことも出来ないまま、慎二は頭脳を可能な限り回転させた。教師や生徒の親達との交渉は生徒会の手伝いとして今までに幾度と無くやってきたが、こんな鬼気迫った状態に置かれた経験は皆無だった。命を握られているというプレッシャーが嫌と言うほど慎二の焦りを助長する。僅かに残った冷静さを必死に繋ぎとめながら慎二は言った。
「………君が桂先生を殺したとき、銃声は一発しか聞こえなかったな」
「それがどうかした?」
「普通、拳銃で一度撃たれた程度なら頭は残るはずだ」
「………それで?」
「なのに、先生の死体は頭を完全に吹き飛ばされていた。つまり、君が持っているのはかなり威力の大きい拳銃だということになる」
「……………」
「頭部を丸々砕いてしまうような拳銃なら、僕の身体のどこを撃っても、出血多量で絶対に助からない………」
「……………」
「それでも構わないと言うなら、撃つがいいさ。君が言った通りなら、どうせ一度は死んだ身
なんだ………」
「……………ふふ」
直後、太腿に感じていた痛みが消えた。すぐに、解放されたのだと気付いた。
「どうやら人選を間違えたみたいね」
慎二が振り向くと、少女はちょうど拳銃を仕舞っているところだった。
「一般人のわりに妙に度胸があって脅しは効かない。さっきの憤慨振りじゃ、正義感もそれなりにあるらしいから、報酬をぶら下げても無駄なんでしょうね」
「見返りが何であろうと、犯罪の片棒を担ぐ気はないよ………」
「そう、残念ね」
そう言って美千瑠は慎二に近づいて来た。
並んで立ってみて初めて分かったことだが、美千瑠の背は慎二の胸あたりまでしかなかった。慎二の背は低い方ではなかったけれど、それでも美千瑠はかなり小柄な少女だった。近づいて会話をするには慎二は下に、美千瑠は上に顔を向けなくてはならない。
上目遣いで慎二を見上げている美千瑠は、相変わらず完璧な仏頂面のままだったが、突然ニコリと微笑み、人差し指で慎二のおでこを小突いた。
「じゃあ報酬はなしということで」
「う、うん」
慎二が短い返事を言い終える前に、美千瑠は慎二の脇をすり抜けるようにして慎二の視界から消えた。首を曲げて後ろを見ると、少女が既にずんずん先を歩き始めているのが見えた。
「お、おい! どこへ行くんだよ」
美千瑠は振り向いて答えた。既に仏頂面に戻っていた。
「あなたの家に決まっているじゃない」
「何でそうなるんだよ! 協力はしないって言っただろ!」
「それは困るわ。道をしらないもの」
「だから何だよ」
「………………」
「お、教えないぞ」
「………………」
「………………」
「………………」
「………はあ」
睨み合いに負けた慎二は観念したように溜息をついた。
「………じゃあ一つだけ。家に着いてからでいい。一体僕の周りで何が起こってるのか、それを教えてくれ。それから、……その拳銃を僕に渡してくれ」
「わかったわ」
駄目元で言った慎二の要求を、美千瑠はあっさりと飲んだ。拳銃のグリップから弾倉を滑り出させると、それを慎二に投げてよこした。
「うわ……っと」
慌てて受け取った慎二は初めて目にする弾倉をまじまじと見た。プラスチック製のケースにの側面には切込みが入っており、きっちりと並んで収まった二十発ほどの弾丸がそこから覗いていた。
「えっと、……いいの?」
「いいも何も、あなたがそう言ったんじゃない。それに、そうしないと道を教えてくれないでしょう」
「報酬はなしだって、さっき」
「………いや、それは、その」
美千瑠は何故かそこで言い淀み、表情を隠すように慎二に背を向けてしまった。
「………御牧さん?」
「気にしなくて、いいわ。忘れて」
そう言って再び歩き出した少女の背中を、慎二は慌てて追いかけた。