第一章 紅の邂逅
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校舎内を一息に駆け降りると、校庭一杯の人だかりが二人の目に飛び込んできた。
ほとんどが学生服姿である。
五月も中旬となり徐々に初夏の気配が漂い始めたこの頃では、多くの生徒が上着を着用していない。白いシャツの袖を捲って腕を陽光に晒している様は涼しげと言えなくもなかったが、これだけ人口が密集していては流石に鬱陶しさを覚えた。
状況が飲み込めていない慎二は、大介に問う。
「これ、何の騒ぎ?」
「説明は後だ。……ここからじゃ、よく見えないな」
そう言って大介は、こちらに背を向けている生徒達を避け、左側から前方へと回り込んで行く。
慎二も続いた。
校庭の外周に沿うようにして進んでいくと、上ヶ崎高校の正門が見えて来る。
どうやら野次馬の視線はそこに注がれているらしい。
「やっぱりそうか……あの野郎……」
正門には数人のスーツ姿の男が、生徒に取り囲まれながら立っていた。何か話し合っている様だったが、ここからでは内容を聞き取れない。
「大介、何を言ってるのか分かるの?」
「いや。だが、推測は出来るさ」
スーツ姿の男達の間から、恰幅の良い老人の姿が見えた。慎二はその顔に見覚えがあった。
「あ………」
「あのクソ親父が関わっている以上、ロクなことじゃねえだろうよ」
大介は顔を顰めながらも、傍観したまま動こうとしない。自分自身あれだけ急いでここまで来たにも関わらず。
しかし慎二には大介の心情が理解できた。恐らく、こうなることが予想できたからこそ、大介は必死に慎二を探していたのだろう。
「行かなくていいの?」
「………………」
大介は黙って顔を背けた。
「じゃあ、僕だけで行くよ。大介は待っていていいから」
慎二は静かにそう言うと、大介を残して校門へと向かった。
遠巻きに成り行きを眺めている生徒を避けて進むにつれ、徐々に状況がはっきりしてきた。
地味だが高級そうな陣羽織を着込んだ老人――大介の父親で、上ヶ崎高校の理事長――は後方で成り行きを見守っているだけで、直接話し合いに参加しているのはスーツを着た、背の高いほっそりとした付き人らしい男だった。数人の生徒を相手に話をしているようだ。
「―――ですって? そんなこと―――どうして今―――」
既に会話が聞き取れる距離まで来ていた。
(この声は――榊さんか)
正門まであと数メートル、という所まで近づくと、状況がより判然とした。
付き人の男を取り囲んでいるのは上ヶ崎高校の生徒会役員達だった。
その中の一人、腰まで届く長髪を後頭部で束ねた女生徒が、長身の男に掴みかからんばかりの勢いで何事かを捲し立てているのが目立っていた。時代錯誤的な角縁の眼鏡が陽光を反射している。
私立上ヶ崎高校二年、生徒会長、榊冴枝だった。
冴枝は唐沢理事にかかりきっていて、歩いて来る慎二に気づく余裕すら無いようだった。
残すところ数歩の距離になった時、慎二は横合いから話しかけた。
「榊さん、これ、何の騒ぎ?」
冴枝はぴたりと動きを止め、横目で慎二を見た。一瞬怪訝そうな表情を見せた後、何かに気づいたのか、ニッと唇の端を持ち上げて笑った。
「ふぅん、そういうこと」
彼女の視線は慎二の後ろ――大介が立っている方に向いていた。
「あいつが助っ人を呼んだってわけね。そうでもなきゃ、出不精のあんたがこんな厄介事に首を突っ込むはずがない」
「違うよ。……たまたま、通りかかったものだから」
慎二はそう言って否定したが、冴枝が納得したようには思えなかった。
「はいはい、そういう事にしておくわ…………あんたが来てくれたのは、こっちとしても有難いしね」
冴枝はそう言って肩を竦めると、再び視線を背の高い男に向けた。
付き人は二人のやりとりを興味深そうに眺めていたが、冴枝が振り向くと同時に素早く居住まいを正し、低く重々しい声で訪ねた。
「お嬢さん。こちらの方は?」
「ああ………生徒会(うち)のお茶汲み係です」
あまりにも適当すぎる嘘だった。慎二は生徒会の役員ですらないとはいえ、他にいくらでも言い方があるだろう。
「なるほど。毒を喰らわば皿まで、嘘を吐くなら思い切り良く、というわけですか。その潔さは気に入りましたよ、お嬢さん」
「お褒めに預かり、どうも。理事長のお犬様」
付き人の言葉を皮肉と受け取った冴枝のやり返しにも男は一向に動じた様子も見せず、むしろ冴枝を無視するようにして慎二に話しかけてきた。
「さて………どうやら貴方が親玉のようですね?」
「親玉? 何のことですか」
「そのままの意味ですよ。―――貴方がここの生徒会を牛耳っている存在なのだろう、という意味です」
「……………………」
慎二は救いを求めて冴枝を見たが、彼女は溜息を吐いただけだった。
仕方なく、男に尋ねた。
「何故そう思うんですか? 少なくとも僕には、全然身に覚えがないんですけど」
「………ふふふ、成程。貴方はそういう型の人間なのですね―――無自覚な先導者ですか。これは面白い、とても面白い」
「それは完全な言いがかりです。………それより、本題に移って下さい。僕はまわりくどい事が嫌いなんです」
「これは失礼」
男は軽く咳払いをすると、薄笑いを引っ込めて真面目な表情になった。
「既にこちらのお嬢さんにはお話したのですが、」
横で黙って話を聞いていた冴枝が眉をぴくりと動かした。どうやら「お嬢さん」という呼び方が気に入らないらしく、男がそれを口にする度、冴枝が反応することに慎二は気づいていた。
「実は先日、本校の理事会で重要な計画が承認されたのです。なにぶん計画が大掛かりなもので、生徒の方々にも協力して戴かなくてはならない部分も出てくると予期されます。そこで、まずは生徒会の方々に、了解を願いに出向いてきた、という訳なのです」
「なるほど」
と慎二は言ったものの、内心では疑問符が踊っていた。
男の妙に持って回った言い方はさておくとしても、理事会がわざわざ生徒会に承認を求めてくるのは不自然極まりなかった。
そもそも上ヶ崎高校は唐沢理事長を筆頭とする理事会が経営上の全権力を握っている私学であり、基本的に生徒側の承認を得る必要はない。
仮に生徒側に協力を仰ぐとしても、校長に文書通達をすれば十分なはずで、直接生徒会に出向くのは、余程の事でない限り、あり得ないことだった。
(…………………)
「まあ、疑問に思われるのも当然といえば、当然でしょうね」
慎二の思考を見透かしたようにそう言うと、男は人当たりのいい微笑を浮かべた。
「計画って、いったい何なんですか」
男は少し驚いた表情になり、
「おや。貴方は校舎におられなかったのですか?」
と不思議そうに言った。
「いえ、今日は午前中を通して授業を受けていましたし、先程まで昼食をとっていました。校舎からは一度も出ていません」
消失してしまった通路とその奥の錆びた扉については、慎二はあえて伏せた。
「ふうむ。校舎に居たにもかかわらず、あの放送が聴こえなかったのですか……妙な話ですね」
「放送?」
慎二は冴枝を見た。冴枝は眉根を寄せて慎二の耳元に口を近づけた。
「………どうしてそんな嘘を吐く必要があるのよ」
「嘘なんてついていない。僕は放送があったことなんて知らなかった」
「そんなはずがないわ……あんた、本当に校内にいたの?」
慎二は妙な気分になった。自分は確かに校舎から外へは出ていない。校内放送を聞き漏らすことは稀にあってもおかしくないと思うが、しかし、冴枝の口ぶりからすると、余程しつこく、繰り返して放送があったらしい。それも、かなり重要な内容のようだ。
慎二が通路から出てきた時の大介の慌てぶりや、校庭に生徒が集っている理由も、そう考えれば納得できた。
「………なぜか分からないけど、僕は放送を聞いていないんだ。どういう内容だったのか、手短に教えて欲しい」
冴枝はやはり疑わしそうな顔をしたが、すぐに割り切ったらしく、慎二の問に答えた。
「一言で言えば………校舎改築計画よ。ここ、私立上ヶ崎高校の本校舎を取り壊して、新校舎を建設することになった、という話」
慎二は、やや拍子抜けした。校舎改築くらい、どこの高校でもやることだ。六十年前の創立以来一度も改築されていない本校舎は、修繕の繰り返しによって所々ガタが来ているという。長年に渡って使用されてきた校舎への愛着や未練は確かにあるだろうが、いずれは建て直されなくてはならないのだから、特に反対する理由も見つからない。
「そうね、そこだけ聞けば、確かに悪い話じゃないわ」
冴枝は慎二の耳元に囁く。冴枝の吐息がすこし、耳にくすぐったかった。
「でも問題はそこじゃないのよ」
「何だっていうんだ」
「理事会の連中は一刻も早く計画を実行したがってるらしいわ。具体的には」
冴枝はこの期に及んで、まだ言うのを躊躇っていた。一呼吸分の間を置いて、冴枝はやっと答えを口にした。
「………今日。たった今から」
*
慎二は静かに男を睨みつけていた。男も無言で慎二を見返している。
「どういうことですか」
慎二は険のある声で言った。
「どうもこうも、お嬢さんの説明以上に付け加えるべきことなどありません」
「僕にはそうは思えません」
慎二は意図的に声のトーンを落とした。
「これは確認ですけど、あなた達理事会の要求は、何ですか」
男は顔に微笑を貼り付けたまま答えた。
「本日五月三十一日午後二時、今からおよそ三十分後より、理事会の管理下である私立上ヶ崎高校の本校舎の解体を開始し、明日朝迄に作業を終了させる。その間、当然ですが教職員や生徒の皆さんは校外に出て頂きます。現時点では以上です」
僅かの淀みもなく答えた男に、慎二は聞き返した。
「現時点では、とは?」
「そのままの意味ですよ。なにぶん、急場の計画なもので、予定通りに進行する保障はありません。再建の時期も方法も未決定です。今のところ決まっているのは解体についてのみですから、現時点では、と申し上げた。それだけのことです」
男が言い終える前に、冴枝が声を上げた。
「再建の時期が未決定ですって? そんなこと聞いていないわ!」
「それはそうでしょう。言いませんでしたからね」
男はそう言うと、突然慎二に顔を近づけて言った。
「うっかり口を滑らせてしまいました。やはり、なかなかやりますね」
「はぐらかすんじゃないわよ!」
冴枝は怒りに唇を震わせながら、男に食って掛かった。
「そもそもこっちは、校舎の取り壊しだって認めてないわ! まだ一学期の真っ最中のこの時期に本校舎を取り壊されたら、あたし等生徒はどこで授業を受ければいいっていうのよ。それだけならまだしも、言うに事欠いて、新校舎の建築予定は未定ですって? ふざけるのもいい加減にしてよ! あんた達は、生徒全員にこの先ずっと青空教室で我慢しろって言うわけ? そんなの、このあたしが許さない!」
冴枝の凄まじい剣幕にも、男は微笑んだまま、直立不動の姿勢を崩さなかった。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ、お嬢さん。綺麗な顔が台無しになってしまうではないですか」
「………っこの、舐めるのもいい加減に、」
「榊さん、ちょっと煩いよ。話し合いは、冷静にやらなくちゃ」
慎二の唐突な叱責に、冴枝は絶句する。慎二は冴枝を無視して、男に言った。
「状況は、ほぼ把握しました。しかし僕にはまだ疑念があります」
「ご質問があれば、何なりと」
ではお言葉に甘えて、と前置きして、慎二は続けた。
「確かに本校舎は老朽化が進んでいるという話は聞いています。でも、そうかと言って、近日中に倒壊の危険があるとは、僕には思えません。何故今日なのですか?」
「それは簡単な話です」
男は一度息を吸って、話し出した。
「要するに、理事会の都合、とでも言えましょうか。実は理事長は校舎改築を前々から望んでおられたのです。しかし、それは口で言うほど簡単ではありません。巨大な校舎を解体し立て直すには、当然、莫大な資金が無くてはならない。いかに理事長といえど、そんな大金を簡単に動かすわけには行かないのです」
「他の理事会の連中の許可が要るんでしょう」
ようやく落ち着いた冴枝が、ふてくされたように言う。男は冴枝に笑いかけた。
「その通りです。ところが先日、ついに計画が承認された。ただそれだけのことです」
「それでは答えになっていません」
慎二はすかさず反論した。
「何故その計画の実行が今でなくてはならないのか、それを聞いているんです」
男は少し困ったような顔をした。
「ですからそれは―――唐沢理事長、そろそろ宜しいでしょうか」
男は後ろで話を聞いていた老人に、慎二に顔を向けたまま呼びかけた。
「うむ、これ以上の問答は無用であろうの」
老人――唐沢元(からさわはじめ)は持っていた杖をかつん、と地面に打ち付けて、悠然と慎二の前に進み出た。背は慎二よりも低かったが、陣羽織を隙無く着こなした老人の姿は、どこか威圧的な印象を感じさせた。
「ふむ。君、名は何と言うのかね」
「桐嶋慎二、です」
慎二はおずおずと答えた。老人は目を瞬かせて、
「ふむ、キリシマとな」
と言ったきり、じっと慎二の目を覗き込んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
「あの――?」
「……成程……これは……遅かったかの……」
至近距離からの視線に耐えられなくなって、慎二は声を上げた。
老人は構う様子も無く慎二を更に数秒間見つめた後、ゆっくりとした口調で付き人の男に言った。
「ふむ。やはり今日は止めにしようかの、西尾」
「………は。しかし」
男は老人の思いがけない言葉に慌てたように答えた。
「この計画は緊急のはずでは……」
「ふむ。考えてみれば、子供等に迷惑が掛かるからの」
「しかし……」
「命令じゃよ、西尾。解体業者にも中止の連絡をしておきなさい………では帰るぞ」
そう言うなり、唐沢老人は踵を返した。早くも待機していた黒塗りの車に乗り込んでいる。付き人の男はその場を立ち去ることに躊躇していたが、諦めたように携帯電話を取り出して番号をプッシュしながら老人に続いた。
男は車に乗り込む寸前に思い出したように振り向いて、再び慎二の所へやって来た。
「今日は無駄な時間を取らせてしまいましたね。私は唐沢理事長の秘書で、西尾承(にしおじょう)太郎(たろう)と申します。以後お見知り置きを」
西尾と名乗った男は、慎二に自分の名刺を渡しながらそう言って背を向け、携帯で会話をしながら老人の隣に乗り込み、そのまま去って行った。
「なんなの、あれ」
慎二の隣で、冴枝が不機嫌そうにぼやいた。
数時間後。
上ヶ崎高校は美坂市の中心に位置するなだらかな丘の頂上に建っており、正門と裏門から一本ずつ、舗装された道が麓まで続いている。
早くも傾きかけた陽の中、慎二、大介、冴枝の三人は、正門から続く坂道を連れ立って歩いていた。
薄くオレンジ色に染まったアスファルトの上には三人分の影が長く伸びている。
「それにしても」
と、沈黙を破ったのは冴枝だった。
「一体、あいつらの目的は何だったのかしら」
慎二が答えるより早く、大介が反応した。
「目的? 校舎の解体だって、言ってなかったか」
「そんなの、表向きの建前よ」
「どうしてそんなことが分かるんだ」
「明らかじゃないの。……だいたい、あんな大掛かりな計画だってのに、校長に何の連絡もなかったなんて、有り得ると思う? きっと何か企んでるに違いないわ。たぶん、教師側も一枚噛んでるわね」
冴枝はそう言って顔を慎二の方へ向けて、
「桐嶋、あんたもそう思うでしょう?」
と尋ねた。
他人を苗字で呼び捨てにするのが冴枝の癖だった。普通なら歓迎されない癖であるが、二年の一学期に早くも生徒会長に任命された彼女が上級生に対して威厳を保つのには一役買っているらしい。もっとも、慎二が冴枝と知り合ったのは彼女が生徒会役員に選出された後だったので、それが彼女の元来の癖なのか、それとも意図的にそうしているのかは分からなかった。
「そうだね、理事会の目的は、別にあったんだと思う」
鮮やかな夕陽が冴枝の眼鏡と瞳に、それぞれ二重写しになっているのを見ながら慎二は答えた。
「あの西尾って人は、理事会でやっと承認されたから、今実行するんだと言っていたけど、いくらなんでも、無茶苦茶な言い訳にしか聞こえない」
「あたしもそう思う。私立高校ってのは、とどのつまり、評判を良くして入学希望者を増やして黒字を出さなきゃならない。それが理事会の収入にも直結するんだもの、当然よね。だっていうのに、こんな生徒にとって迷惑千万なタイミングで校舎改築なんてしたら、いい評判どころじゃない。あたしなら絶対に転校してやる………ああ、なんか、また腹立ってきたわ」
「まあ、結局諦めてくれたんだし、いいんじゃないか?」
「………あんたね、他人事みたいな言い方してんじゃないわよ」
冴枝は呆れたような視線を大介に向けた。
「な………しょうがねえだろ」
「別に、あんたのお父さんが理事長だって事は関係ないわよ。話し合いを慎二だけに押し付けて傍観してた事を責めてんの。分かってる?」
「いや、だから………そもそも親父とは、ここ数ヶ月間、顔すら合わせてねえし………」
「女々しいわねえ。自分の親とくらい、ちゃんと向き合いなさいよ」
更に呆れたような声を大介に浴びせている冴枝の顔には、少々疲れが見て取れた。
あの騒ぎの後、冴枝は校庭に集っていた生徒達に状況を説明する作業を行い、その後には教職員への報告、生徒会の臨時召集等々の雑務に追い立てられた。慎二と大介も手を貸そうとしたのだが、冴枝は「これは生徒会長の任務だ」と頑なにそれを断り、全てを自分一人で片付けたのだった。
「まあ馬鹿は放って置くとして。……今日は桐嶋のお陰で助かったわ。感謝」
慎二は唐突に礼を述べられて、どぎまぎした。
「僕は、正直そんなに役に立っていなかったと思うけど……」
「そんな事はないわ……あんただから言うけど、あたし、交渉は苦手なのよ……すぐに冷静さを失っちゃうのよね……恥ずかしい話だけど」
「へぇ、鬼の生徒会長にも弱点があったって訳だな」
「唐沢、あんたは黙ってなさい」
「痛え、鞄は反則だろ!」
「うるさいわね、角じゃないだけ有り難いと思いなさいよ」
「あはは……榊さん、少し疲れてるみたいで心配したけど、大丈夫そうだね」
「え、そう見える?」
冴枝は慌てて眼鏡を外し、目の下を手で揉むようにした。
「言われてみりゃ、確かに……肌つやが、ちとまずいかもな」
「うるさい! 何てこと言うのよ!」
「痛え! 角はやめろ、角は……」
坂道を十分程かけて下ると、三人はようやく麓の十字路に辿り着いた。
今まで歩いてきた道は幅の広い大通りとなって南方に伸び、それと垂直に交差して東西に歩道つきの車道が横たわっている。
三人の通学路は丁度この十字路で分かれるのだった。
「それじゃあ、あたしはこっちだから」
そう言って冴枝は早々に東へと―――冴枝はその先にある寮に住んでいる―――歩を進めようとしたが、突然ひょいと振り向いた。
「………やめようかとも思ったけど、やっぱり訊いておくわ。桐嶋、あんた、何をしたの?」
「え――? 何って、何?」
「しらばっくれないで」
心なしか冴枝の声には厳しさがあった。
「あれだけ強硬に校舎の取り壊しを迫ってきた理事長が、あんたと少し顔を合わせただけで諦めた………一言も会話を交わさずにね。どんな手品を使ったらあんな芸当が出来るのか、それを聞きたいのよ」
「そんなこと言われても………僕にだって、全然分からない」
「そうなのか?」
声を挟んだのは大介だった。
「俺はてっきり、お前が何か奴の弱みでも握ったんだと思ってたがな。そうでもなきゃ、あのじじいが、簡単に手を引くはずがねえ………少なくとも『生徒の迷惑』なんて微塵も考えねえぞ、あの野郎は」
「だから、分からないって言ってるだろ」
慎二はやや向きになって言った。慎二は何もしていない。今日は、不可解な状況が勝手に進行するばかりで、慎二の理解は完全に置き去りだったのだ。その事に一番不満を抱いているのは慎二自身に他ならなかった。
「さっぱりだよ。本当に」
「………まあ、あんたがそうまで言うなら、仕方が無いわね」
冴枝は溜息を一つついた。
「それが事実ならどうしようもないし、理由があって隠してるとしたら、なおさら訊いても無駄か………それじゃ、あたしは今度こそお暇するわ。せっかくの午後を潰しちゃって悪かったわね」
そう言い残して彼女は寮へと帰って行った。