第一章 紅の邂逅
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授業が終わり昼休みになるとすぐに、隣のクラスから唐沢大介が弁当を持って慎二の席にやって来た。
友人が決して多いとは言えない慎二にとって、中学からの付き合いである大介は学年でもそれなりに貴重な友人である。
慎二の許可も得ずに勝手に向かいの席に陣取ると、大介は弁当の包みを開きながら慎二に話しかけた。
「よっ、大将。聞いたぜ、今日もまた何かやらかしたらしいな?」
慎二は購買で買っておいたパンと牛乳パックをビニール袋から取り出して、先に牛乳を飲み始めた。
「人聞きの悪い言い方はやめてくれよ。居眠りしてただけさ」
「ほぉー、桂の授業中にか? 随分太い神経してんのな、お前って」
「どうしてそうなるんだよ」
「だってよ、桂をキレさせたらマジでヤバいって、お前も知ってるだろ。いくら試験で点取ったって、奴の手に掛かれば即、ダブり決定なんだからな。生徒からの評価は最低だが、教職員からの信頼だけは妙に厚いもんだから好き勝手してやがる。信じられねぇぜ、ったく。お前も気をつけたほうがいいぜ。なんか、お前には留年の相が見える」
「何だよそれ……。大体、そんな心配されなくても、さっきの授業だって上手く切り抜けたし」
早々に牛乳を飲み終えた慎二は器用にパックを畳むと、今度は惣菜パンの包みを開けた。パンの表面には「激辛」という焼印が押されている。大介はそれをちらりと見ながら言った。
「それがそうでもなかったみたいだぜ? 俺はさっき職員室に帰る途中の桂とすれ違ったんだが、あいつ、『キリシマブッコロス』って、聞こえるように呟いてたんだ。恥ずかしながら、俺は心の底から恐怖したね」
「はは」
大介の物騒な発言にも慎二は動じなかった。
「それにしても、あの人はどうして僕を目の敵にするんだろうね?」
「………………自覚ないのかお前」
「は?」
慎二は心底理解できない、とでも言いたげな表情を浮かべた。
あの新人教師――桂綾子と慎二は、初めて出会ったときから折り合いが悪かった。
二年に進級して最初の数学でのことだ。桂は教壇に上るやいなや、何の前触れもなく黒板に一つの問題を書き殴った。
「これが解ける者はいるか」
生徒の中には誰一人として手を挙げる者は無かった。当然であった。
桂が出題した問題は高校二年生の持つ知識では、まず解決不可能と言っていい難問題だったのである。
数分間の沈黙の後、桂はわざとらしく嘆息して、
「そうか。解ける者はおらんのか。私が学生の頃は、この程度の問題など瞬殺したものだが」
教室は静まり返っていた。
桂は何故か満足そうに生徒たちを睥睨して、
「仕方が無い、不本意だが解説してやろう」
そう言って桂は、さらりとした栗色のショートヘアを気取ったように片手で撥ねた。
もったいぶった大仰な動きで黒板にチョークを走らせ始めた桂の後姿を、慎二はぼんやりと眺めていた。
教室には乾いた摩擦音だけが響く。
戸惑っていた生徒たちも、徐々に気を取り直してノートを取り始めていた。
教室には上下左右に計四枚の黒板が備え付けられていた。上下の黒板はスライド式になっており、下側の黒板を上げることで上側の黒板を引き寄せられる仕組みになっている。
その黒板の一枚目が早くも埋まろうとしていた頃、筆記具も出さずに肩肘をついていた慎二が声を上げた。
「桂先生」
呼びかけられた桂はぴたりと動きを止め、慎二に向き直った。
その表情は、解説を中断させられたことにたいする不快感と、それを隠そうとする取り繕った笑みとが同居していた。
桂と慎二の間にいた生徒は、桂と目が合いそうになった途端、即座に顔をあらぬ方向へと背けた。
「何か質問かね……桐嶋?」
初回から生徒の顔と氏名を把握して自分の優位を確立するのは桂綾子の常套手段であったが、こと桐嶋慎二に対しては効果がなかった。
慎二は桂の威圧など物ともせず、疑問を口にした。
「あの……先生、その解法で説明をお続けになるんですか?」
桂は一瞬、きょとん、とした顔をしたが、すぐに、慎二の発言の意味を理解した。
「……ほう、私の解法に不満があるというわけか。では桐嶋、お前がここに立って、私の代わりに問題を解け。もちろん、私のよりも優れた方法でだ……安心しろ、公平なジャッジを約束しようじゃないか……」
桂はそれきり沈黙した。
自分が出てくるのを待っているのだと気づいた慎二は、窓際最後尾の自分の席を離れ、クラスメートの脇を通り抜けて、黒板の前に立った。
桂が使っていたチョークを取り上げ、二枚目の黒板に、一行だけ書き付けた。
慎二は席に戻った。気だるそうに教卓に目を向ける。
桂綾子が教室の戸を、凄まじい音を立てて閉めて出て行ったのは、ちょうどその瞬間だった。
以上が、大介が人づてに聞いた顛末だった。
「いや全く、可愛い顔してえげつない……」
大介は思わず本音を吐露する。
「そうそう。あんなつまらない授業で眠るなだなんて……理不尽だよ」
大介は桂教諭に同情した。あまりにも相手が悪すぎた。プライドの塊である彼女は、恐らく逃げるに逃げられないのだろう。そう思うとますます不憫さが募った。
慎二は黙って惣菜パンを食べ終わると、ビニールから二本目の牛乳とパンを取り出した。パンの包みには「激辛」という文字が燃えていた。
「……お前、よく飽きないな……」
「え? 美味いよ?」
「いや、そういうこと言ってるんじゃなくてな……毎日、牛乳に激辛パンって……お前、料理出来るのに、なんで弁当作らねえの?」
「欲しいんだったら作ってもいいけど?」
「いや、別にいい……」