By the words of WIZARDS

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  •   第一章 紅の邂逅  

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     桐嶋慎二はチョークを手にした教師が黒板に黙々と書き付ける数式をぼんやりと眺めていた。授業は終盤に差し掛かり、黒板の上に掛けられたアナログ時計の針は、残された時間が十分を切ったことを示している。
    「退屈だな」
     慎二は無意識に独り言を発したが、彼の周りに着席した生徒達は数式を書き取ることに没頭していたため気づくことは無かった。
     否、一人だけ。
    「……」
     最前列、教師の目の前というある意味で拷問に近い位置に着席していた少女が、後方に座っていた慎二を、わずかにグレーを溶かし込んだようなストレートの長い黒髪の脇から白い横顔を覗かせて、振り返って凝視していた。
    (……?)
     慎二は少女――確か御牧美千瑠という名だったはずだ――の視線に気づき多少困惑したものの、決まりが悪くなって慎二の側から視線を逸らした。さっきの独り言を聞かれたのだろうか? 慎二は最後尾の窓際に座っているので彼女とはかなりの距離がある。他の生徒が誰一人気づいた様子もないのに彼女一人が気づくというのも妙な話だが、たとえそうだとしても、独り言くらい誰でも言う。無視していればそのうちに彼女も慎二を見るのを止めて黒板に向き直ってくれるだろう。
     何しろ先程から無言で板書を続けているこの数学教師は、毎年の学期末試験で恐ろしく難しい問題を出して担当したクラスの生徒の半数を落第の危機に陥れるという噂なのだった。また口頭での説明もほとんどしないため、ノートを取り損ねたりすれば後々とんでもないことになるのは目に見えており、したがってクラスメートは皆ノート作成に必死にならざるを得ないのだった。
     だが三十秒経ち、一分が経過しても美千瑠は慎二から視線を外そうとしなかった。彼女の不審な行動に気づいた何人かの生徒達がその視線の先を追い、慎二と美千瑠とを交互に見比べて顔を見合わせ始めた。
    (何なんだ……?)
     慎二も流石に無視を決め込むわけにもいかなくなって来た。既に半分以上の生徒が、訳も分からないままに美千瑠と一緒に慎二を見つめている。教室の雰囲気の変化に気づいた数学教師が、その長身痩躯を律儀に直立させたまま振り返り、教壇から生徒の注目を集めている慎二を見下ろすようにした。しかし、どういうわけか慎二をただ見つめるのみで、何を言うわけでもない。
     沈黙が降りた。板書をノートする音も聞こえない。息をすることさえ躊躇われるような静寂の中、教室内のすべての人間の瞳が慎二を見つめていた。
     突如として慎二は逃げ出したい衝動に駆られた。だが、こんな異常な事態は経験したことが無い、とでも言うように体中が緊張していて、微動だにすることが出来なかった。視線は美千瑠の目――金色に怪しく光る眼――に捉えられて瞬きすらも忘れていた―――
    「おいっ、桐嶋! 桐嶋慎二!」
     突然の怒声。次の瞬間、慎二の身体は解放されていた。無表情だった数学教師は怒りに顔を震わせている。クラスメート達はやはり慎二を見ていたが、その表情はどこか嘲笑のそれに近く思えた。御牧美恵は先程と同じく淡々としていたが、もちろん、眼はいつもどおりの黒だった。
     理解した。居眠りをしていたのだ。
     涎を垂らしていないかどうか慌てて確認していると、再び教師の罵声が飛んできた。
    「授業中に居眠りとはいい度胸だ。私の授業はそんなに退屈か」
     教師の剣幕は相当なものだったが、恫喝の仕方がひどく陳腐、もとい古典的であったため慎二は危うく笑ってしまいそうだった。しかしこの教師を下手に刺激してしまい、優秀な成績を収めていたにも関わらず留年に追い込まれた生徒の例を知っていたので、努めて真面目くさった表情を作って教師に答えた。
    「すみません。先生の授業はいつも興味深く拝聴させて頂いておりますが、生憎昨夜は授業の予習に時間を取られて夜更かしをしてしまい、睡眠不足だったのです。そんなことで居眠りをしてしまっては全く本末転倒だとも思い、早く就寝することも考えたのですが、授業の理解が不十分になることを恐れたために、こんなことになってしまいました。本当に申し訳ありません」
    「………………」
     うむ。もうこれで大丈夫だろう。こういう謝罪というのは、丁寧すぎるくらいで丁度いいのだ。
    「……事情はわかった。次からは気をつけるように」
     教師はなにやらバツが悪そうにそう言うと、再び黒板に向かって計算を再開した。
     時計を確認すると奇しくも夢の中と同じ時刻を指し示していた。残り時間は三分もない。
     教師は無理矢理にでも今日のノルマを消化しようとしているらしく、かなりのハイペースで手を動かしていた。それでも黒板の字が少しも乱れないのは、プロ意識の賜物とでも言うのだろうか。
     慎二はすぐに黒板に書かれた内容に興味を失くし、ぼんやりと御牧美千瑠を見た。美千瑠は黒板を時々見てはペンを軽やかに走らせていたが、一度だけ、ふと気づいたように慎二を見返し、ニコリ、と微笑んだ。

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